このページは2004/10/28/23:30頃 作成  04/12/20/15:00頃 最終更新

「三行日記」   2004年09月
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09 01 〜夜はS高校生への唄と話の仕事でムーンビーチへ。話のネタは沢山ありすぎ。で勢いで終わりに「ドミファの唄」を披露してしまった。今日は玉城焼、ゆい工房(Nさん母息子に会う)、K'sクラフト、小渡浜。東寄りから入ってずっと干瀬の方まで行く。とても良い海の景色を見た。夕方シャワーで潮を流す。DVD鑑賞「照屋林助(ETY特集)」「久高島」。お芋のカレー。
09 02 Aさん不調でHさんと出る。「新」、陸軍病院20号壕、文化センタ、このあたりでHさんも気分がすぐれず、帰庵。昨日張り切ってたくさん海を楽しんだせいで疲れが出ているのかも知れない。今回は一週間以上雨沖縄島に滞在だから、体調は整えておかなければ。溜まっていた区費を支払う。近所のKさんが来る、Iさんも。Oさん姉妹の体調も良くなってくる。
09 03 Oさんたち朝一番にゆし豆腐を会にJAへ。昼はIさんも来て垣花樋川、仲村渠樋川、浜川御嶽と百名浜。「9/7喜びの日」なる催しを「新」のMさんが企画。そのチラシをiBookで印刷して配り始める。近所のOさんの家にも配る。パトッチャワーにも。O姉妹は元気になってパトッチャワーへ散歩。今晩から宿泊のKさんと「新」にチラシを渡した後、奥武島のバス停で合流。夜は花野果村食堂。
09 04 台風接近の荒天のためO姉妹は久高行きを断念。Kさんとパトッチャワー、糸数城、アブチラガマ出入口、普天間基地周辺(佐真下のゲート、ヘリ墜落現場、沖国大5号館の写真展)。榕樹書林。コザのYホテルでお別れ。Kさんはエイサーを見に行ったのだが、悪天候のため屋内に変更になったらしい。お気の毒に。私は北谷、与那原を通って帰庵。O姉妹は徒歩で奥武の海産物食堂に。
09 05 台風18号。沖縄国際大での宜野湾市民集会は延期、来週の日曜は東京にいるので残念参加不可能だ。内々の知り合いだけの集まりで佐敷の喫茶店Kの宴会(演奏付き)は中止。O 姉妹と庵にいてビデオ鑑賞会となる「20世紀の映像・沖縄」「知ってるつもり・ひめゆりと仲宗根政善」しみじみした気分で颱風をやり過ごす一日となる。
09 06 颱風去りゆく日。昼過ぎ近所のYさんが知人のMさんを連れてくる。西表と首里で店を持っている人。国際電話ポーランドの案内人Nさんと連絡付く。喫茶店KのT夫妻が来てナーベランブシ、とソーミンの夕餉。これまた近所のFさん歩いてこられて欧州行のカンパを下さる。熊本の連隊にいた頃の話も聞く。空港ではダイヤが乱れ続けている。「ウンタマギルー」を鑑賞。
09 07 O姉妹と斎場御嶽。Yさんを空港に送る(昨日の約束通り)のだが空港が混雑しているので早めに。関空に飛ばないなら岡山にでも、という話。バルセロナに公演に行くそうだ。明日の国際便に間に合う必要がある。O姉妹も荷物を預けた後に那覇へ。夜は「喜びの日」の会。 具志頭のAさんの戦争体験談と唄の夜。Mさんとも沢山唄った。私の欧州渡航の足しにとのカンパ額一万円を超える、感謝。
09 08 Iさんと佐喜眞美術館、比嘉豊光を見に。宜野湾市役所写真展示、沖国大展示を見てIさんをNさんの家に送る。Sさんレンタルバイクでやってくる。二泊の予定。常連のMさん夜来る。十時過ぎにタイ料理店に行こうとしたが念のため電話してみると「もう閉店」。串焼きやに行く。思いがけず自分のボトルがあるとのこと。Mさんのおごりで美味しく戴く。夜道を帰る。
09 09 Mさんは例によって九時頃出ていく。SさんとIさんと三人で垣花樋川、タイ雑貨店。タイの裏話など沢山聞くことができた。Iさんを通院先に送って庵へ。スオミ(フィンランド)の関係者への土産のミンサーの栞の代金を首里の料理店Nに届ける。帰り道でN三線店に深大寺そばをさし上げてからIさんを拾って家に送る。庵ではSさんが自炊中。明日からの旅行の荷造りの夜となる。
09 10 7時半起床。午前中は会議、Oさんを拾って二人で首里へ。12時半会議を終えて帰宅。土産に野菜を少し買って二時過ぎに出発。5時には羽田着。混雑の時間帯で交通手段に迷う。結局電車とバスと言うことに。小雨の中、吉祥寺でバス乗り換えを待つのが大変だった。日も暮れる。夜はUさんとアウシュビッツの話など。彼ら夫婦は10年ほど前にツアーで行っていたのだ。
09 11 7時起床。土産持って最終リハ、打ち合わせ会場、野方へ。昼前に、駆けつけた娘も紹介できた。歩いて高円寺へ。長閑な秋の始まり。静かな公営団地の佇まいが嬉しい。吉祥寺は秋祭りをしている。午後は「りっく」の原稿書き。Kさんから電話があり庵に忘れていった時計を渡すべく下北沢のKで飲もうと言うことになる。 エイサーの練習の後に合流したYさんと三人で楽しく飲む。三鷹台から歩く。
09 12 寝坊して8時起きる。慌てて椎名町の梱包会場に。昼には終わって一人歩いて中野に向かう。好天。秋祭りの威勢のいい若者が行き交う。途中安いラーメンを食べて出たところでばったりYさんに会う。明日の防衛庁前の行動のことを知る。数年前、デモ解散地点の東京駅でばったりあったことなど思い出す。そう言う言葉を交わしはしないが励まし合っている気がする。中野五丁目を通る〜
09 13 安い靴下が道端のワゴンにあったので二足買うことにして店にはいると、そこは何と我等が山原船。今はアダルトショップになっているのだった(買ったのは靴下というのも珍しい)。店番のお姉さんに挨拶し二階も見た。階段が綺麗。「階段下はトイレでしょ、前の店によく来てて」など話す。今日にかけて原稿書き(クイパラ通信)。夜、市ヶ谷で抗議行動。歩いて新宿の鍛冶屋へ。旅支度。
09 14 4時起き。5時吉祥寺発のバスで羽田へ。40分で着く。29人が集合。関空11時発。午後3時ヘルシンキ空港着(時差は6時間)、舞台監督Sさんと主宰Hさん、迎えに来てくれてた現地スタッフKさんの車で四日後の公演場所のスタッフと打ち合わせ。娘は地方のLさんらとバスで町中に行っていたらしい。夜、国内便でロバニエミ着。摂氏2度。鹿児島からのBさんも誘って部屋で飲む。
09 15 「サンタホテル」で朝食。旨いのは鰊の酢漬け。味噌汁などの和食もある。午前は観光。サンタ村で北極圏を跨ぐ。地軸の傾きが23.4度でここは66.6度。さすがに太陽が低く渡っている実感。午後ニヴァヴァーラ小中学校訪問。カリキュラムは前勤めていたS学園と似ている気もする。生物の授業にお邪魔して「安里屋ユンタ」。こちらの主力は中・高校生。若い若い。夜、中華料理。小雨。
09 16 昨日と同じく朝食。午前は小学生のワークショップ、昼は給食を一緒に。午後は中学生のワークショップ。私は舞台の案内役(通訳はKさん)。打合せに手間と時間を掛けた甲斐があった。その後小学生が覗きに来て交流、サイン責めに会う。スオミ語を熱心に教えてくれた男の子が印象深い。サンバを教えたら喜んでいた。夜、大人向けの公演。私の「琉球の文化と歴史」15分はやや重いとの感想。昼間の子が母親と来ていた。嬉しい。で片付けて宿に帰ったときにオーロラが出現! 緑のカーテンがたなびく。31人全員で感激。
09 17 今朝は早起き、7時出。快晴。サンタ村植樹祭へ木道を歩く。昨日の校長と一緒に。式典では四つ竹他。踊り手の足が冷えて大変だった。昼はラップランドの煮込み汁。とにかく景色が広い広い。起伏が小さい。針葉樹の森が続いている。我等はスタッフとして最後に片付け済ませて、郡職員の運転するベンツ(ワゴン)でサンタホテルへ。午後、近くの川の畔の民俗博物館見学。夜はホテルの食堂でのライブ。唄のコーナーにも参加。ロヴァニエミ市のトナカイのバッジをもらう。サーメ族の太鼓も戴く。食事は寿司。これでロヴァニエミの五回の公演は終わった。
09 18 早起き。いつもの朝食後、荷物をバスに積込み、直後にルドルフHで個人の荷を積込み空港へ。ヘルシンキ着後公演荷物搬入組はカイサ(会場)へ。地下街のイタリア料理屋で昼食の後、化粧など始まる。個人の荷物搬入組はホテルから徒歩で会場入り。夜、スオミで二度目の一般公演。鮨屋をしている沖縄人のMさん一家も来た(この日の夕食は楽屋で寿司居りだった、旨かった)、日本の大使一行も来た。私の担当する「文化と歴史」15分、主催者の意向もあって幾つかの内容を改善したが、沖縄戦とその後の琉米日の関係(特に基地問題)については譲らず。夜、火照る肌に風が心地よかった。トラムに乗って宿へ。料金の払い方が分からずみんなで無賃乗車してしまった。
09 19 今日は公演のない日。午前は港付近の公園、青空市、寺院、広場を案内してもらった。午後は娘と美術館を見学、混んでいた。駅前を通過して、博物館。よく歩いた。夕方、コンチネンタルH裏の雑貨店を見つけてパン、青菜、缶詰、ビールなど買い込む(節約のためもあって)。夕方部屋で二人でつつましく食事。買った缶詰のほとんどがツナとわかり苦笑い。パンに付けようと思って買ったチューブのマヨネーズも実は塩気の多いツナペーストだった。そうこうしていると主催H夫妻がやって来て合流。四人で楽しく飲む。
09 20 朝食7時前。湖の脇の公園を抜けて徒歩で会場へ。9時からのワークショップは客がなくて中止。10時からのは幾つかの学校から数名単位で集まったお客がいて成立。これで今回のスオミ公演7回が終了。最終回にいたって初めて「よさこいソーラン」-鰊漁-北欧と共通、という話題に気づきアドリブで説明。カチャーシーも楽しく終わる。カイサのスタッフも大喜び。大使からカンパがあって午後は鮨屋へ、ということになる。私は一度宿に帰り入浴。その前後にホテルのフロントを通じたりして、午前中会場にいなかった数名に急遽計画した打上げのことを伝達できた。よかった。31名で打ち上げ。店主のMさんも笑顔。午後は一人で散歩して帰る。最後の夜も部屋で。一人でいるところに娘とAさんが来て、後でLさん達も合流。トナカイの肉差し入れてくれた、旨い。Hお父さんも。
09 21 今朝は娘と二人早起きして7時過ぎに宿を出た。小雨の中空港へ。ワルシャワは重い雰囲気。列車の券を買ってからタクシーで中央駅へ。暗い。3時頃にクラクフ。また小雨。ホテルに飛び込んだら安い部屋があった、嬉しい。先ずは明日の案内人中谷さんに電話。こころが落ち着く。次に街を散歩しながら代理店の窓口で明日の夜行の件を買う。駅にコインロッカーを見つけたので明日使うことにする。いろんなことが上手く動いていく感覚。食堂で旨い料理を食った後、雑貨店で食料や土産にするお菓子などを買い込み宿に戻る。部屋にはいるまでに四つくらいの鍵を使う。iBookを持ち出して隣のネットカフェへ。
09 22 早起き。歯磨きしていて隣の部屋の白人に会う。出がけに娘のシャンプーをバスタブの近くに忘れていたことに気づき取りに行ってその白人青年と会話。コインロッカーに大荷物を入れてから切符を買う。構内でさっきの青年に声を掛けられた。カナダから、とのこと。同じバスでオシフィエンチムへ。白人の旅行者が多い。
博物館で日本人達10人ほどと合流し中谷さんの案内で見学。思った通りの重い内容。勉強になる。昼からはブジェジンカへ。午前は晴れ間もあったのにここへ来て曇天。やがて雨、雷鳴まで。監視塔の上にいると強風で横殴りの雨。折り畳み傘を荷物から出していて落とし、柄のところが割れてしまう。中谷さんの言うとおり30分待つと雨が上がる。で見学続行。ガス室の跡まで行く。晴れてくる。解散。歩いて戻るときに思いに包まれる感覚を味わう。
バスでオシフィエンチムへ戻る。今日同行した中に、ドイツで働いている青年(大使館勤務?)とその母親がいておしゃべりする。クラクフへのバスはまた白人が主体で満席。晴れる。
夕方駅の二階で食事。少し街を歩いて今晩のビールなどを買い込む。ズオチをコルナに換えた残りを使い切る。ネットカフェに行った後、早めに駅へ。荷物を出して夜行を待つ。不案内の中乗れてホッとする。10時40分、列車が動き出してから乾杯。ヘルシンキで買ったチューブ入りのツナ、ビールに良く合う。
09 23 初めての夜行列車だったが快適で熟睡。国境を越えるときに旅券を提示したがスタンプを押されもせずに通過。あっけない。朝、7時に起床。洗顔、排便。で、若干遅れてプラハに到着。
生憎の曇天、小雨。欧州の都市の石畳にはキャスター付きのスーツケースは不便と学んだので駅のコインロッカーに荷物を入れてから宿探しへ。この時、小銭が必要になり人の良さそうなおばさんのやっている売店でサンドイッチを買う。明後日朝の空港行きに便利なように先ずはミニバスの乗車場所を見つけてから(これだけでも時間がかかった)、その近くを歩き回って宿を探したのだがクラクフと違い満室ばかり。
地図でムハ(ミュシャ)博物館を探し見学。雨も降っているので、通りがかりの斡旋業者に入り、宿を探す。数件を当たったがなかなか空きがない、仕方なくミニバス乗車場のことは条件から外し、トラムで20分かかるという郊外のペンション風の場所に決める。鷹?のマークの宿。
気分を直そうと駅に戻って上階の食堂で昼食。安くて旨い。天井はドームでレリーフもあり柱にはムハの版画。雨には参ったが仕方ない。荷物をロッカーがら出して傘を差し濡れながらトラムの駅へ。十数駅先で下車と分かったが車内放送もなく、窓ガラスも曇っていてどこで降りたらいいのか分からない。座席では酩酊した青年がビールの空き瓶を叩いている。こんな状況が不安な気持ちを一層かき立てる。数え間違えたのか降りてみたら目的の駅はさらに二つ先。次の一台をまた濡れて待つ。当該の駅からは、しかし、思ったより容易に宿に着いた。係りの女性も中欧に来てから一番親切な人に思えた。濡れたものを部屋に広げて一休み。細いロープが役立った。
階下の食堂の料理が旨い。フロントの壁の棚に並べてあった酒(アブサン)を買って飲む。
09 24 朝飯も同じ食堂。午前中はのんびりとデジタル写真の整理など。ネットの設備(客用)はない。昼一人で散歩、晴れてきていい気持。店などほとんどない郊外。少し起伏がある。古いターミナル駅だったらしきところでゲイシャチョコ見つけ買う。帰って娘を誘いトラムでプラハ中心街へ。ユダヤ人街から旧市街、生バンド演奏も聴く。晴れている。観光客で賑わっている。天文時計、フス像など見る。夕方、人形劇ドンジョバンニを鑑賞。まだ日が暮れず、カレル通りからカレル橋。散歩も楽しい。トラム乗り継いで宿に戻る。慣れてきた。食堂で欧州最後の晩餐。昨晩の酒の残りも飲む。当然ビールも飲む。旨い。
09 25 昨日買い込んだサンドイッチを食べ7時前に宿を出る。フロントの女性が急いで朝食を出そうとしてくれ、温かい気持になる。郊外故の心地よさだと思う。トラム乗り継ぎ方法、考えに考えたら実に都合のいい道順が分かった。重い荷物を転がす距離を最小限に。予定より一本早いミニバス(ベンツのワゴン)に乗って空港へ。十分余裕を持ってヘルシンキへ。バルト海が見えた。ヘルシンキで一回入国して、娘は前に買ったお土産の税金の割り戻しを受ける。二人とも最後の買い物をしてぎりぎりの時間に出国。客が多くて(日本人も多い!)行列になっていたのだ。夕方発の上海行き。満席。月が出ている。 深夜、北京の夜景を遙か下界に見た。
09 26 10時間ほどで上海着。回転台に出てくるはずのない自分たちの荷物が流れているのを見て戸惑うが、係りに聞いて受け取ることにする。一旦入国。日航に乗り換え。荷物預けるときに、フィンエア機内放送で酒のボトル云々と行っていた(英語)のを思いだし、ペットボトルに入っている酒二三種を荷物に詰める(これが功を奏したとは後で知ったこと)。同じ便でヘルシンキから来ていて福岡に飛ぶBさんに合うことができおしゃべり。これがまずかったのか出国のゲート前は何千人もいるかも、という人だかり。列は遅々として進まず。すぐ後ろにいた朝鮮人とおぼしき女性が「訳を話してすぐに行くのが良い(日本語)」と勧めてくれる。日航の係員を見つけ順番をとばしてもらい出国。それでも時間ギリギリ。走る。思ったより遠い。息が切れたが乗れた。国際線の日航便は噂の通り一人一つのモニター画面で映画が見られた。黒沢明の「酔いどれ天使」。チンピラ三船敏郎の死に様が印象的。「灰とダイヤモンド」のラストを思い出す。どちらかがどちらかに影響した可能性も。
成田着は昼。バスで吉祥寺。時差ぼけは無いようだ。
09 27 瑞穂町のHさん(今回の欧州公演の舞踊団体の主宰)の事務所に行き、ヘルシンキから送ってもらった衣装などの荷物を受け取る。上海空港でのこと、Sさんが土産に買ってあった酒瓶を一時没収されたんだ、と聞く。DPE屋に行ったり生DVDを買いに行ったりして夜、U夫妻(約十年前にアウシュビッツ訪問)に旅の話、デジタルビデオや写真を見せつつ。時差ぼけの症状はない。我ながらタフだと思う。
09 28 洗濯、メール。段ボール箱入手し梱包。6時防衛庁前の集会には間に合わなかったが中野の満月祭(ビラ配り)には参加。その後、新宿の鍛冶屋へ。欧州旅行の「反省」でN氏(パリ在住)、S氏(舞台)、H夫妻(主宰)集まる。計画時に断念した太鼓のN氏が踊りのU氏、仲間のH氏も連れて参加。シーサーズの三名も同席して賑やかになる。庵で知り合ったY氏も合流。会計処理もできて飲み代助かる。
09 29 台風21号の近づく日。昼前に横浜に向かい、従姉のYさん宅へ。欧州行きの話を持ち込んだ人物。デジタル映像など使って報告。近況報告などもして、夜多摩に戻る。11時前にもう一度出かける。バスと電車で馬小に。わずか30分ほどだったが。帰りはうっかり吉祥寺を乗り越して三鷹から歩く。この春から運行している吉祥寺からの深夜バスに乗るつもりでいたのに。
09 30 東京最終日。午後、知人Tさんが旧友Kさんと催した個展会場に行く。準備中に娘とお邪魔した。Tさんの作った料理をKさんが日本画にした作品を見る。思わず涎がでた。この日は面白いことがあった、行きがけに花屋に入ったら丁度電話が鳴った。聞くともなく聞いていると高井戸「ちゃんぷる亭」のIさんがかけた電話。IさんとTさんは同じS学園の卒業生。

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