フレッツという名称を冠したADSLが何社からも出ている。割引競争でしのぎを削っている。そのうち自然淘汰があって少なくなるのだろうか、いや既に消えていった企業もあるのかも。不景気の中で伸びる産業というのは、今は良いとしてあとでどうなっていくのだろう。逆に今は困難にあっていずれ花を見る産業は何だろう。
03 |
07 |
金 |
明日から4日間沖縄行き。その直前直後にエイサー講習会に向けての練習と打ち合わせがある。その準備で忙しい中、うれしい電話。10日月曜の夜首里でのライブに参加してくれとのこと。今日午後から日曜夜まで那覇を離れるHさんとあす昼に那覇に行き火曜に那覇を離れる私。ぎりぎりの時間の中での計画。面白い。
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03 |
08 |
土 |
今月30日の「エイサー指導者のための講習会」の準備。古典舞踊などと違って偶数拍、奇数拍、表裏の変化などが踊りに大きく影響する。群舞だから。また、教育の場で子供達を指導するための振り付けなので格別の配慮もいる。面白い。踊りに合わせて工工四も変えてみた。そういう工夫が楽しい。太鼓転がして那覇へ。
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03 |
09 |
日 |
夕べは南部のO島の食堂に誘われて上手いものを食った。誘ってくれたのは十年来の友人Tさん夫婦とやはり同じ村内に住む数名の知人。食事後、また一人の知人が増えてボトルを頼む。安い。一つ集落が違うと言葉が違う話。沖縄口といっても千差万別。それをそのまま残すのは不可能だ、等。風に吹かれ歩くのも心地よい夜だった。
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03 |
10 |
月 |
昨日もたくさんの人と話した。また、玉城村が新しく整備しつつある舗道を歩いたり。ヤハラヅカサの代わりの杭も見てきた。清々しい気分。今日は首里でライブ。本島に急なことなのに私の知人が十人近く来てくれそう。楽しみ。明日は昼の便なので殆ど人には会えない。その分今日回ったが、会えなかった人もいる。
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03 |
11 |
火 |
沖縄もこの時期、寒暖の差が激しい。昨日は長閑な日和だったので散歩もした。H集落の住宅あとの空き地に獅子を見つけたが、直後に俄雨。拝所の庇を借りて雨宿り。温かい土地の力を感じる。夕方、打ち合わせのために新大久保へ。東京の風は冷たい。ビル風なのか肌を刺してくる。セーターを取り出す。
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03 |
12 |
水 |
昨夕、音楽センターでの打合せ中に携帯が鳴り「明日午前、N養護学校の授業の一貫で講師として招きたい、エイサーの地方とミニ鑑賞教室をよろしく」とのこと。喜んで引き受ける。夕べは「七月エイサー待ちかんてぃ」をばっちり稽古。2時間十分楽しんだ。子供達にはクイチャーや赤田首里殿内の振りが好評だった。
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03 |
13 |
木 |
ヤフー、ニフティーなどのADSLの電話問合せで相談をすると、どうも要領を得ない。こちらの知識不足が一つの原因だが、その知識を増やしたり、正確なものにする方向で話が進まないのだ。時間をかけていくとなんとか見えてくるし、向こうもこちらを理解し対話の体をなしてくるのだが当初の距離感は実に悲しい。商業主義の悪弊だろう。
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03 |
14 |
金 |
久しぶりにクイパラ事務所に行く。池袋なる都市を通過。「都市の論理」やら「魔都の群袋」に触れた頃から都市を意識して来た。都市と関わることを是としてきた自分が今は都市から距離を置き眺めようとしている。僅かな経験の中から、ホーチミン、シェムリアプ、那覇、ゴールウェイ、ロンドン、新宿、渋谷、を思い出しつつ歩いた。
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03 |
15 |
土 |
「ぼくの好きなうた63」を書く。水曜にN養護学校で楽しんだ「赤田首里殿内」が題材。月曜夜のアルテ崎山のすぐ北が赤田と地図で知る。首里殿内〜祝女〜アニミズム、と来てあのゆったりとした二拍子の世界を再発見。本調子の「赤田首里殿内」と二揚げの「弥勒節」、話題尽きぬ琉球の唄また唄。唄の思いは小学三年生にも通じたはず。
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03 |
16 |
日 |
昨晩は、日曜夜に崎原の喫茶店で偶然会った詩人に渡されたチラシに引かれて、駒込へ。その知人の第七詩集発刊記念を兼ねた講演会、懇親会。自作を大和口で朗読、そして沖縄口で朗読。この演出は絶妙だ。少量のアルコールが効いてくる。懇親会では私も飛び入りで「羊」を朗読。「貘さんおいで」那覇港の写真を思い出した。
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03 |
17 |
月 |
昨日は22日の講演の打合せ、稽古、粗いリハーサル、のために東久留米へ。「前の浜」太鼓、もっとメリハリつけて打つよう言われる。自分としては音を小さく、しかし十分打ったつもりだったが、遠慮しているように受け取られたのだろう。実は小山彰太や森山威男の事を考えて打っていたのが逆効果だったようだ(わはは)。
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03 |
18 |
火 |
合衆国が「最後通牒」を突きつけた。朝刊が重い。30年代だったか高村光太郎が書いた詩をにそういうフレーズがあったことを思い出す。光太郎はその後「変質」、翼賛的運動も牽引役になる。そして敗戦後の「懺悔」。一人の芸術家、詩人の軌跡から何を学ぼう。さてイラクの詩人は今どうしているのだろう。
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03 |
19 |
水 |
朝、箪笥を整理して古着をリサイクルに出す。昼、ネットカフェで「三線の日」記事を見つけた知人から「リンクでこのサイトを知った、面白い」とメール。嬉しい事だ。長電話した。午後、従妹が近所に来たついでに家に立ち寄る。夜、西荻窪で友人と飲む。この一年友人が増えた。ライブが多かったから。嬉しい。
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03 |
20 |
木 |
開戦の日。忌まわしい。昨年度の卒業式の日に憲法の小冊子を担任していた生徒達に贈ってから一年と一日が経ったのだ。一人淡々と読んでみた。その後、また山之口貘の「羊」を読む。「鰯に鮪」のビキニの灰は、その約十年前の広島・長崎から始まった放射能を約五十年後の劣化ウラン弾にまで繋いでいるのだ。
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03 |
21 |
月 |
昨日、品川での催しに参加。第一部では開演時に「てぃんさぐぬ花」を唄う。唄うことの気持ちよさ。第二部は北島角子さんの「赤いぶくぶくー」。主催者が企画したときにはこんな日に重なるとは思ってもいなったはず。時代の流れの中で、役者は慶良間の事実を東京で演じた。K泉やI原の棲息する東京で。
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03 |
22 |
土 |
戦争だ、戦争だ、が言えなくて「だ、だ、」と口ごもる紙の上の人間、を実感。東久留米成美教育会館で演奏。古典では一張羅の紋付を着けて晴れ晴れしく演奏、またエイサーの地方も。夕方、三鷹にあるホールに娘の発表(歌)を見に行く。オペラの曲。なかなか上手い。聞き終わってすぐ東久留米に飲みに行く。
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03 |
23 |
日 |
急な用事で玉城村に行くことになる。ネットで航空券を予約、明日の朝晩の割引の席がとれた。日帰りになりそうだ。先に航空券を押さえたので、夕方になって会うべき人に連絡が取れホッとした。日帰りで沖縄に行くのは二度目になる。どちらも「慶弔」でないところが自分らしいと思い、微笑んでしまった。
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03 |
24 |
月 |
寺田勲の命日。58年前、那覇に向かう船もろともに海に沈められたのだった。頭の中で因縁を辿りながらの旅になった。昼過ぎ、母と同い年の人と話した。戦時中は九州に疎開していたという。イラクでの戦争を憂う表情がものを言う。午後「平和の礎」に行く。死者の名前はいつも静かである。静かであることに説得力がある。
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03 |
25 |
火 |
日帰りのつもりだったが、翌日の便もとれたので一泊旅行となる。湧水を歩き回った。「水の物語」を思い出していた。水は命を巡り命を沸き立たせている。水田こそ無かったが田芋などが育てられているのを見た。一方、昨日慌てて飛び立った鳩がガラスに激突したのに居合わせた。今日見に行くと、死んでいた。
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03 |
26 |
水 |
「なんくる学校」と言う講演会に行く。沖縄修学旅行に関わる教師達が多かった。会の後飲みに行く。新しい出会いもあった。私を講師に呼んだH高校(3年の保護者が主催したもの)がこの春の沖縄修学旅行を放棄したと聞く。二月の修学旅行説明会の後、知花昌一を呼んで講演会(2年の保護者が主催)をしたあの学校。残念、無念。
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03 |
27 |
木 |
昨日、娘の高一の時の友達が大勢我が家に来た。数名が泊まり、一人を駅に送る。娘はその序でに借りていたゴーグルを保育園時代の友人に返しに行った。つまり私は運転手。その友人、大学入学手続きに行くというので序でに運転手をして、お祝いに遅い昼食を奢り、保育園にも寄った。世話になった先生達に会えた。春の一日。
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03 |
28 |
金 |
アロハイサイ、nachi-booの助っ人で参加。指笛のラボさんの指導もあった。これがなかなかならないのだ。コツがわかるまではダメでしょうね。機会ある毎に練習はしているのだが、やはりダメ。短時間になり始める人もいて悔しい思いをする。帰りの電車は満員。年度末、週末で送別会などが多い、と誰かが言っていた。
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29 |
土 |
朝から明日のエイサー講習会の打ち合わせのために千葉県某所に行く。大げさに言えば、エイサーの一大拠点になろうとしている場所へ、である。五人で打ち合わせを済ませた頃に二三十人での特別練習を見学。舞踊の植竹しげ子さんを呼んで身体について学ぼうという会。勉強になった。めきめき動きが変わっていく様を目撃。
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30 |
日 |
エイサーを教育の現場で子どもに教えようとする人たちを対象にしたエイサー講習会、の手伝い。必要に応じて部分的に地方を唄う役割。三曲。面白かった。一日のプログラムなのだが、昼食後には現地でとったビデオ(今日のために編集したもの)の上映もあった。生の映像は心を惹きつける。ゾクゾクしてしまった。
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31 |
金 |
昨晩、講習会のご苦労さんで一杯やった後、光源寺(駒込)に行く。反戦の集会、演奏会など連日やっていると聞いていたので。あいにく寿の演奏には間に合わなかったが関わった人々の意気込みを感じることができた。作家、評論家、活動家、演奏家、等々。帰路は寿の二人と話しながら。良い一日だったが戦争は続いている。
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