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    このページは2002/09/02/15:00頃 作成  10/03最終更新
「二行日記」を表紙から移したものです
02年8月の分は【3】をご覧下さい。
9 01 「防災の日」とやら。関東大震災の後、引き続いてどのような災いがあったか、忘れてはならない。権力者の恐怖心、統治への欲求、それによる謀略が多くの人をして人民の命を奪わせた。無名の人々よ、あるいは大杉よ、伊藤よ、歴史を作る力はあなた達にこそあったのだが。さて現代を生きる私たちが「防ぐ」べき「災」とは?
9 02 「名前と人間」(田中克彦・岩波新書)読む。巻末が心を打つ。「どのような固有名詞を知っていることが教養的であるかを定めるために教育機関、学会、情報組織が〜基準を作り、知識の規範化、平準化を推し進めてきた」3世紀にわたる悪弊。国家的に、また国際的にも「知の欲望」「発展こそが社会の使命」という幻想が創作された。
9 03 残暑が続く。実は内心嬉しい。猛暑の中を走ったり、歩いたり、自転車こいだりが好きだ。冷房を切って車を運転するとホイールを握る両手の甲が汗で光る。こういう快感は夏にしか味わえない。去年まではよく登山したし(←仕事で)、西表島横断も経験した(12時間以上歩いたのだった)。汗だく、飲んだ水が体を通過する快感。
9 04 昨日、猛暑云々と書いたが、知人のサイトを覗いたら「太陽の下で汗を流す生活が健康と快便をうむ」と。大賛成。だが、自戒のために二つ書いておく。その1、彼は群馬にいる。都市のコンクリートジャングルや琉球の紫外線シャワーのもとでは同じようには出来ない。その2、彼は「自給屋」の労働で汗を流している、私とちょっと違うな。
9 05 台風だ。毎度の事ながら、琉球の話。今回は(も?)停滞している。去年を思い出している。某"超大国" に攻撃があった日に、その"超大国"の軍事的な要である"超弱〜い"島は停滞している台風の下に隠れていました。で攻撃を免れた、と私は思ったものです。本気でホッとしたのだった。台風で欠航と聞くとそのことを思い出す。 
9 06 「踊りこはでさ節」踊りの地方の準備。古典の価値はこういうところにあるのだろうか。三線と唄のズレが激しい。半音のぶつかりが何カ所にもあって「平気な顔」をしてる。以前「なりやまあやぐ」で一音のぶつかりは経験済みだったのだが、半音のはキツイ。しかも何回も出てくる、面白い。面白がっている余裕はまだないのだが。 
9 07 結婚お披露目宴会に「宅配」された(雇われて演奏した)。以前従兄弟の結婚式で弦楽四重奏(雇われ)を聴いていたく感動したことを思い出した。ああ、ここが琉球であったら唄三線の「宅配」なんてあり得ないことだ。私は大和にいると再確認。夕方、明日の敬老会での演目の練習をする。音の響きのいい場所。快感は腕を伸ばす。
9 08 東村山の敬老会の地方、「踊りこはでさ」「麦ぐるくばがさ」「鳩間」。初めてで緊張。声が震えるわい、と気づいた頃には震えが止んでいったので快感。練習嫌いの私がさんざん練習したのが失敗だったかな?、はっはっは。しかし、私一人の三線で踊り手含めて三人が左右される。面白い。昼に八国山の近くの友人宅へ。緩やかな時。
9 09 昨夕は「登川誠仁民謡ショー」。満席。老若男女。特に、若い人が多い。誠小(これ、単語登録してあった、感動)感じているのかな、この客層。東京人として嬉しい所もある、が「げっ¥5000(コザでは考えらん)」という呟きのほうが私には似合っている。皆さんご免なさい、私は「ご招待」で見に行ったのだ。理由は、あっ字数切れ。
9 10 昨日のこと。自転車で三軒茶屋へ向かう、と雨模様だったので下高井戸から世田谷線に。FM世田谷スタジオで奄美音楽演奏を聴く。やはり生は良い。帰路、雨降ってなかったので下北沢まで歩いていく気になる。ついでに一駅一駅歩いて自転車の止めてある所までテクテク。すると雨が降り出してずぶぬれで帰宅。ああ、これも又快感。風呂、ビール。
9 11 横浜に住んでいる二軒の親戚に写真を見せてもらいに行く。勲が出征するときの宴会の写真あった。スキャナーできっちりPCに取り込んだ。写真を見ているとその時代その場所に自分が生きているようだ。楽しいような怖いような。母の妊婦姿も。胎児の私が腹の中にいるわけで、面白い。自分の知らない自分の写真も沢山取り込んだ。
9 12 西表の「節」に合わせて旅行できる条件が揃った。旅行代理店からクーポンと時刻表が届く。船の時刻など調べつつ西表のリゾート開発が気になる。貘さんの一つのテーマ「お金」と「血に染まった地球」というフレーズが響いてくる。昨日は何かの記念日なのか、全く気が休まらない。人間が愚かだということはもう充分知っているよ〜。
9 13 多摩川へ行って歌の練習。練習後思いついて多摩区役所近くの居酒屋へ。主人もお客も何とも気持ちのいい店だ。調子に乗って何曲か唄う。帰路、雨の夜道で自転車転倒。自動車進入禁止の鎖に気づかず相当の早さでつっこんだのだった、と数秒後に理解。擦り傷と打撲少々で済んだ。吹っ飛んだ眼鏡と腕時計も無事。それらに感謝。
9 14 連載の原稿を書く。「勝ってカマブクたべたいなー」という替え歌。以前古本屋で見つけた「日本軍歌大全集」(全音楽譜)実に良い。全ての歌に記事がある。大ヒットだった「露営の歌」を「たべたいなー」に替えた、登川誠仁少年は皇国が負けていること、人民は勝利より食物を願っていることなどよーく承知していたのだ。不忘軍歌。
9 15 H市の敬老会で演奏。会場へはH駅から歩いた。車窓から見えた駅南側の団地や商店は73年(完成時)と変わりなし。下車した北側も、上水の遊歩道に細長い自転車置場が出来ただけでがらんとした雰囲気は30年前と同じ。11歳から17歳を生きた場所。小学校、団地、中学校を通過して30分の散歩。会場脇は懐かしい中央図書館だった。
9 16 夕べはライブハウスでの演奏会。島袋りりあとは「むんぐるくばさ」「こいな」を掛け合いで唄い、新里愛蔵やぷりむんの後ろで太鼓。最後の連続カチャーシーは特に面白かった。歌い手三人の喉に別々の色があって代わる代わる唄い継ぐ。お客さんも踊り慣れた人が多く、会場が一体となって何時まででも踊り続けられそうな空気だった。
9 17 昨日の昼、H市敬老会三か所目の地方。「踊りこはでさ」「鳩間節」を集中的に繰り返して過ごした半月間でだった。本番を重ねることで表現が鍛えられていくのを実感。そろそろ人生の下地は出来てきた気がする、後はいろんなものにまみれて迷子になってる自分を追ってみるつもり。(ま、これまでもそんな気で生きてきたんだけど) 
9 18 比嘉康夫「神々の古層」シリーズの西表「節」を再読。人が一所に生き続けていくところにこういう祭りがある。一所に生き続けていく人々こそが人間のように思える。誤解のないように付け加える。「一所」とは場所だけの概念ではないだろう。自分の生きる「所」とは何なのか、誰から受け継ぎ誰に伝えていく「所」なのかと考えている。 
9 19 日曜にH市の懐かしい場所(駅、小学校、団地、中学校、道、図書館)を歩いたせいで中学時代のYT先生が気になっていた。「国語」の教師で一年間は担任でもあった。19年間の教師生活で折々気になっていたが何の連絡も取っていない。昨夜ネットで検索、ただ一件尋ね当てた個人サイトの主にメールしたら返信に先生の電話番号が(つづく)
9 20 あり、意を決してかけた。お元気そうである。懐かしい話の中で御自分が教師として考えていたことを語られた。それが私の教師としての姿勢と通じる所多く、驚く。「影響された」とも言えよう「馬が合ったのだ」とも言えよう。当時私は10代前半。先生は40前後だったとか。一世代の時間が経過。「一所」の一面が照らされた気がした。 
9 21 ふくろまつり(池袋)「棒踊り」で鉦。クイパラ宮古公演より遙かにうまくいった。本番に勝る稽古はないな。午後6時から散歩気分で歩く、明治通を南下、高田馬場でちょっと疲れて地下鉄で中野へ。久しぶりにKという店へ。古くからの住宅街にあるので夜がきちんと夜である。開店を待って小公園で読書、見上げると八月十五夜の望月、薄雲を通して。 
9 22 雨がしとしと日曜日、僕は一人で、老子、の本を読んでいた(読点に違和感があった方へ、これは替え歌なのですよ)。どんなに、遠く、離れて、居ても、僕は、○○を、忘れはしないー。さて、「○○」に入れるべきは何ぞ。普天間?嘉手納?(象の檻の)不法占拠?米兵の無法?不発弾?、、いずれにしても老子とはつながりが見えにくいが。 
9 23 雨上がり、野川沿いをジョギング。昼、まずは団子坂上の寺へ。母の父母、母の母の父母の墓参り。母の父の母は戦後のどさくさに失踪したまま、母の父の父はもとから不明(戸籍で父子の関係が不明)でとにかく参るべき墓がない。父方の話は省略。夕方「アシバ祭」にいくと早速太鼓を頼まれ新里愛蔵さんや愛好会と競演。考え、楽しんだ一日。
9 24 秋晴れ。夕方が短い。日が陰るとすぐ気温が下がって、あれよ、と言う間に暮れる。こういう風だから、この季節のこの時間が嫌いだ。そういえば思い出した、幼い頃そう幼稚園に通うより前のことだが、目覚めたら夜になっていた。それが嫌で嫌でたまらなかった。身体も心も違和感で満ちていたのだった。秋の経験だったのかも知れない。
9 25 一昨日アシバ祭で久しぶりにあったSさんに誘われ、某ライブハウスにCSのTVの番組収録を聴きに行く。夏川りみ、たっぷり二時間弱。多くの唄者と同じく彼女もやはり生が良い。共演はギター一本(2曲だけ自分で三線を弾いて歌った)だった。これがライブ感をぐいっと高めている。そういえばCDって限りなくカラオケだもんな。
9 26 「節」を観るべく出発。今まで観たどんな祭よりも「生」のまま続いている行事を見学することになろう。ドキドキしつつまず那覇へ。「M三味線店」「N三味線店」でゆんたく。初めて「まるみかなー」へ行き、主人の小浜司さんとお客のT氏と三人でゆんたく。司さんが焼いた「蓬ケーキ」の話もすれば、カッチャンの水中排×ビデオの話も。
9 27 昨夜はそのあと小桜でゆんたく。今日はガラビ、ヌヌマチ、アブチラガマの入口を見てから糸数城に、晴天下、視線を右に辿ると慶良間諸島までもが見えた。昼飯は近所の岩の間の家に住むK氏を誘い奥武島の食堂でゆんたく。その後、玉城に工房を持つI氏とゆんたく。夕方、普段と別の道で浜川御嶽から受水走水、新原の浜へ。面白かった。
9 28 早起きして西表へ。着くといつもの穏やかな海。西表法師蝉(と勝手に呼んでいる)が賑やか。節の準備でみんな急がしそう、楽しそう。一方ユニマットの月が浜リゾートの問題、星立に「ペンション村」白浜に「海人の家」祖納に資料館、などの構想も進んでいると知った。どこにいても伝統と変化を考えさせられるのが現代人ではある。
9 29 祖納公民館でミリクオコシ。人が神になり行列は浜へ。弥勒節が違って聞こえる。良き哉。丸間盆山を廻る船漕を見た後、急いで干立へ。芸能を見学。有名なオホホは迫力。祭の夕方に相応しくないが一人で二時間近く浜歩き。行きは徒歩、帰りは泳ぎ(スノーケル)。大は30cm、小は1cm程の小魚の群を見た。銀色に陽光を反射させていた。
9 30 祖納で多くの知人に会う。地元の人々、写真家、大学教授、その教え子達。昨日のユークイ会場はきれいに掃除されており、今日はツヅミ(締めくくり)。井戸の清めと感謝の奉納、素晴らしい。拡声器無し、テント無し、余計な観光客無し、の無い無いづくしが良いのだ。昨日の妙なBGMに興ざめしていた私はここで生き返った。ああ良かった。
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