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    このページは2002/10/06/10:00頃 作成 (04/10/05リンクを訂正) 10/18最終更新
「二行日記」を表紙から移したものです
02年9月の分は【4】をご覧下さい。
10 1 晴天の那覇から飛行機2時間強で雨の羽田。ここまでは良かったのだが。知人(唄者)を羽田で待つはずが、彼は台風の影響を見越して早々と新宿のホテルに着いたと電話有り。では、と調布行きのバスに乗ると首都高渋滞でなんと三時間近くかかってしまった。帰宅は諦めて直接、彼を歓迎する飲み会(西荻窪)へ、ああ疲れた。でも会は楽しかった。
10 2 台風一過。娘が保育園に通っていた時の友人Mさんから電話。「H高校の親の会主催『授業』の講師を」という依頼の具体的な話をした。Mさんは「『平和』を話題に」した「勉強になるもの」でかつ「楽しめるもの」という条件を示した。「前半は踊りと唄、後半は『平和学習』をめぐって」というふうにまとまった。手応え十分の会になりそう。
10 3 宮古観光感謝祭なる宴会に演奏者として参加。やはり踊りの地方が面白い。棒踊りの鉦も慣れてきて楽しめる。一方、観光パンフが並ぶ中に気になる企業もある。私はゴルフ場に入ったことがない。以前、羽田への時間調整で千葉の上空を飛ぶ飛行機からよく見えた。ホントに妙な景色。大和人以外のアジア人達もこれほどゴルフ場を作っているのか?
10 4 久々に餃子を作る。高校生の時に数年間バイトしていた中華料理屋で沢山料理のコツを知った。私は配達と店の中での運び役しかしていなかったが、まあ目で盗んだ知識だ。15席くらいの小さな店だったが、いやだったからこそ沢山勉強させてもらった。人生は一回きりだと、会心の出来の餃子を食らいつつ、再確認した。
10 5 秋晴れ。休日らしい一日。洗濯、ベランダの雨樋の掃除、卵サラダ作り、前の職場の運動会の参観、知人に頼まれた演奏。その知人とは〔唄三線と太鼓〕ばかりやってきたが、今日は「三線も持ってきたら」との提案で、唄三線もだいぶやった。良かった。三線二丁ってもいい。中立のみががま、やらよう、など久しぶりに歌って楽しかった。
10 6 中野まつりの演奏に参加。中野三線愛好会。SIさんと演奏できる機会が指折り減っていく。彼がこの秋にタイに移住するから。演奏後、楽屋で「来週の日曜の演奏会で、『PW無情』を是非」と言ったら、早速歌ってくれた。収容所での唄を聴く機会が減った気がする(寿は『屋嘉節』を歌っているが)。そう言えば最近、知名定男を聴いていない。
10 7 夕べ、中野で飲む。二十歳そこそこの若い人たちから、SIさんの演奏を聴きに駆けつけた80歳(数え)の大先輩OK先生まで。三線取り出したS氏は、隣に掛けていたOKさんに『あぶじゃーまー』の、余り知られていない詞の節回しをじっくり習う事が出来て、感激していた。それをまた皆で喜ぶ。人が集まると大きな価値を生むものだ。
10 8 朝からSIさんの録音に参加。10曲くらいだろうか。彼の唄三線に合わせて太鼓を打つ。身体と心は正直なもので、SIさんが今月中にお別れかと思うと何となく湿っぽい音になる。おまけに雨まで降り出す始末。しかし、なぜでしょう?いつも雨模様のときにはべこべこになる大太鼓が今日はきちんと張ったままだった。音に充分張りがあった。
10 9 11/16にH高校で「授業」は、高3保護者のMさんに依頼され、二人で話して企画を練っている。踊りは当日参加するメンバーに左右される、これが面白い。宮廷舞踊「四つ竹」、八重山庶民の「麦ぐるくばーさ」、沖縄中部の伝統芸能の発展型のエイサー。さらに、踊り手Hさんのリクエストで「加那よー」。これが難しい。今日から特訓だぁ。
10 10 十十(じふじふ)。'44年のこの日、那覇が焼かれた。沖縄での非戦闘員の戦争被害は夏の疎開船撃沈からなのだろうが、それは極秘だったろうから、この日の大規模殺戮が庶民から見た沖縄戦の始まりだろう。焼ける家屋、命を奪われる老若男女。明治維新からの日本のアジア侵略、拡大主義の結末が見えてくる。権力の妄想が周縁を翻弄する。
10 11 「ぼくの好きなうた」書く。祖納と干立の節について解説にもなるように書こうとしたら、ゆうに4回分にはなってしまいそうな勢い。そこで祖納のしかも前半として仕上げ出かける。石垣昭子さんの講演にBGMの為に三線を担いで駒場へ。残酷なことに寮はほぼ更地になって、がらんとしている。ああ。この場所の懐かしさ指数はほぼゼロになった。
10 12 「琉球フェス前夜祭」なるライブ、太鼓を貸す役で10時間近く会場にいた。リハの新良幸人が良かった。T氏の歌集(この頁のかつての写真-今は【写真集】で見られます-を口絵に使っていただいた。今年サイトを始めた縁で私が関わったわけだ)をゆっくり読み味わいながら聴いた。周りに人が少ないこともあり、格別の快感。言葉の力を信じよう。
10 13 朝、野音で太鼓組みH市T団地の公園へ。土に木漏れ日。快感。「四つ竹」「むんぐるくばーさ」「鳩間節」、唄う快感。車を家において再び野音へ。リハの終わりに着く。エイサーの銅鑼を頼まれ着替えて出た。快感。裏でりみさんと会い、トイレで誠仁さんと会い、快感。夜、中野で山原船大会の三次会で沢山の懐かしい顔に会う、また快感。
10 14 秋晴れの日が続く。沖縄島ではある御嶽の周りを知人達が大勢集まって掃除している。何十年に一回の大仕事である。大仕事と書いたが重荷を負った辛い仕事でなく、晴れ晴れとするための心鎮まる仕事になっていることだろう。多分この日のことはこれからも大きな意味を持つと予想している。私の気持ちが彼方まで伝わっている手応え。
10 15 先週書き上げた原稿を修正。石垣昭子さんの講演で祖納の節の衣装がどんな風にして復元されたかを知ったから。比嘉康雄の写真集では舟子の被り物の唐草模様が印象的だったが大和の風呂敷を間に合わせに使っていたらしい。昭子さんは紅型の布を裏表二枚使って復元。弥勒の黄色の衣装も以前は化繊で済ませていたと聞いて驚いた。
10 16 夕べは娘と中野のYに行く。店をたたむというSIさんに挨拶に行ったのだが、時間と共に客は増え、案の定、昭和新道通りは立ち飲み通りと化す。「久しぶり」やら「それは違うよ」やら「もう、いい加減にしようぜ」やら。幼きは1歳から、老いは?歳までまさに老若男女の賑わい。この店でこの12年間に私が出会ったモノ、コトの多さよ。
10 17 所用で外出。あまりにいい天気なので自転車を使いたくなり、ここ調布から多摩川を渡って隣県にある私鉄の急行停車駅へ35分。途中野川沿いを通ったり、甲州街道を横断したり。つくづく排気ガスの不快さを再確認。そうそう飛行機が羽田に着陸するときに見えるあの何とも形容しがたいもやのようなモノ、その中に生活している私。
10 18 「黒旗水滸伝」(竹中労・かわぐちかいじ)上下巻を読み進めている。'76年から「現代の眼」連載の作品。思い出深いのだ。貧乏寮生、毎号大学生協で立ち読み。その十数年後、都立図書館(立川)所蔵を知り、府中図書館経由で借りてコピーを取り(雑誌の一部なので合法、何回かに分けて、つまり相当の日数をかけて)作品全部を手に入れた。
10 19 自転車で散歩。武蔵境、東小金井、新小金井あたりの商店街(駅前以外)は20年前と殆ど変わっていないが、新小金井の商店街の中心にあった銭湯が見あたらない。で何度もその辺りを通過。無くなったモノを知ることがきちんとした思い出を作る。今度無くなったモノリストを作るかな。国分寺の電気部品店も無くなったんだったな。
10 20 一週間後の催し「琉球への誘い」の為の練習。三線二人に太鼓。踊りの曲も数曲。小会場で行うので気を廻らせるのが面白いと予測する。当然マイクなどは使わない。太鼓の強さが大きく影響する。一方観客の呼吸も私たちに届くだろうから、相当に細かい表現が瞬間瞬間に出てきそうだ。練習後むかご入り御飯や煎った椎の実を戴く。秋だ。
10 21 10・21だ。「学徒出陣」を送る大キャンペーンが東京で行われた日(59年前)。また、国際反戦デー。バリで爆弾テロがあり、パレスチナでも衝突が絶えない。合衆国は朝鮮半島への軍事戦略のシミュレーションを続けていると報道されている。「国際反戦」はどのようにして可能だろうかと、一人ここで考えた。唄三線の稽古もここでした。
10 22 好天。一昨日買った靴を下ろすことを兼ねて調布の街まで徒歩で往復。行きは40分、帰りは100分。見つけたもの、安売りの食品店、鬼太郎や鼠男や猫娘のオブジェ、カリンの実、温泉の奥の料理やさんの裏の子猫、市場付近の新しいビル、神社の境内の古いトイレ。自転車で動くときと得るものが違う。当然だが新鮮な感覚。
10 23 一昨日突然動かなくなった換気扇、メーカーに問い合わせたら「明日修理に行く」。夜、直接技術者が電話してきた。買い換えた方がいいだろう、と言う。早速電器屋へ見に行こう、と支度しているとまた電話で「今、問い合わせたが部品在庫もうない」と追加の情報。そこで、どういう機種を選ぶべきか詳しく教えてくれた。好感を持つ。
10 24 祖納の節の感銘=8割、「テントと拡声器」の幻滅=1割、残りの1割は異邦人としての私を書いた(つもりの)最新文章をアップ。が、Nナビゲータでは結局出てこない写真がある。それも気まぐれに。きっと原因は私にあるのだが。「ネットで『ちょんちょんきじむなー』を検索していて、どんと追悼文章を知ったがらふていさをとは〜
10 25 〜あなたか? 読んでいて泣いてしまった」と言う書込に出会う。私がその掲示板に琉フェス(東京)の評を「これでいいのだ」とか「所詮東京の野音なのだ」と言う具合に書込んでいたのとタイミングがあった様子。クイパラ通信のサイトでその文章を読み直したら自分も泣けてしまった。で早速ここにもアップ。Mさん感謝です。
10 26 雨。で某エイサー集団の練習場所が中野の公園から松戸にある体育館に変更。初めて見学に行くのに二時間近くの旅。しかしその甲斐は十分にあった。踊り手多く地方も良い喉。思いがけず知り合いも数人いて、またまた縁が広がった。気持ちの良い出会い。夕方雨が上がり公園で練習。相当に冷える。地方の後ろで三線弾いていたら手が凍えた。
10 27 晴れ。陽気に誘われ一時間ほど徒歩を交えて秋津の「ギャラリー縁」へ。植竹さんの企画「琉球への誘い」太鼓。30人でぴったりの小スペースだが、天井は高く、木の床と白壁まことに心地よい空間。唄三線と太鼓のバランス良く、踊りとの合わせもなかなかスリリングだった。明るい昼時の公演も良いものだ。日が傾いて皆で乾杯。私はホッピー。
10 28 市の保険センターに定期検診に行く。帰りは徒歩。深大寺の崖線にいい竹藪がある。葉擦れの音が心地よい。時空を超越した感覚。あとで地図を見ると城址の一部らしい。柿の実に日が当たると秋−大和の秋の夕暮れを歩きつつ「加那ヨー」をおさらい(左手の指を動かしながら口ずさむ練習、歩きながらできるのだ)。あとは「デイゴ音頭」だ。
10 29 今日もいい天気。国分寺にある「カフェスロー」という店を目指す。歩こうかな、とおもったが地図を見て断念、今日は自転車と言うことにする。あまり良い味わいの日差しなので行きしなに多磨霊園に寄る。岡本太郎の墓に良い光が当たっていそうだったので。予想より日は南に傾いており、墓自体よりその脇の桜の木立の光が良い感じだった。
10 30 夜、11/16の打ち合わせで、Mさんの家に行く。Mさんの娘Mちゃんとうちの娘は保育園入園以来の友人だ。Mちゃんはそのころからずーーーっと変わらない感じがする。自分で考えたおもしろーいおとぎ話じゃなくって、大学の推薦試験の話などしてはいるのだが。我が娘も塾の帰りにMさんの家に寄る。二人の話し方はよく似ている。
10 31 いい天気。11/16の打ち合わせも兼ねて植竹さんに会う。11/23の券を十枚預かる。S線の途中下車が好都合というので、私が6歳の夏から11歳になるころまでを過ごした思い出深い街の駅へ行く。動き回れるように自転車で。よく登った銀杏は最近伐られてしまった様子。畑はぐんと減った。が、小学校の前の広い芝生畑は昔のまま。
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