このページは2003/04/16/02:00頃 作成  03/05/08/10:30頃 最終更新

「三行日記」   2003年4月
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04 01 光源寺の住職の話し、前から気に入っていた。江戸弁なので噺家のような感じもある。次の法事が楽しみになってきた。宗教心は無いつもりだし、そこに眠っている私の祖父はクリスチャンだったのだが。祖父が死んだとき私は5歳だった。死を初めて意識した。星になった、と母に聞かされた。長らく墓石のない墓だった、それが好きだった。
04 02 戦争は続いている、雨が降る。夕刻から録音に行く。私より年輩のシンガーソングライターのCDで三線や太鼓、指笛、囃しを入れたいのだそうだ。殆ど出来上がっている上に今書いた順で重ねていく。面白かった。個人スタジオでふつうの家を改造したもの、内装も木や竹、布が多くてとてもいい雰囲気。良い一日だったが戦争は続いている。
04 03 H高校のO先生に会いたい。沖縄旅行中止の経緯が知りたい、と勝手にこの日を設定して昨冬から馴染みの飲み屋へ。実はO先生とは連絡取れずじまいだったから会えなかったが、クイパラのTさん、Kさん、植竹しげ子さんと飲むことになった。私の今後の人生に大きな示唆をいただいた。マスターは盛んに「羨ましい」「妬ましい」など言っている。
04 04 死が重なっていく。それが戦争の一つの姿だ。今日は「シ」が重なる四月四日。そのことを「シ合わせ」と読み替え、今日唄う唄が決まった。「仕合わせの唄、さあうたいましょう」だ。十年くらい前の一人多重バンド演奏ライブはサイトで公表しているが、今回はさらにその替え歌。反戦の声は地球上を覆っている、はず、だ、が。
04 05 所用で横浜へ、第三京浜は便利だ。帰路、娘の保育園時代の仲間、というよりこの頃は私を講師や音楽家として関係する学校へ送り込んでくれている(娘の通うH高校へ、また御自分の勤務先のN養護学校へ)Mさん宅へ花見に行く。娘の同年生四人がいて、前から準備して置いた詩集「深呼吸の必要」を贈る。高卒の祝いと言うわけ。
04 06 全生園にいく。存在がものを言う。ものを言うという風に声高なのではなく、静かに語っている。平和の礎などの静けさと似ている。場の力、気の力。但しそれは歴史の中で醸されてきたもの。為政者の悪意と、民衆の差別と。そして闘った人々、祈った人々。こういう場の対極にTDLとか(もう一つ大阪のが思い出せない)なんかがある。 
04 07 昨日は、全生園の資料館を見学の後、ひとり新井薬師公園に向かった。こちらの花見は町中の如来さんの近所の人々の花見。三線愛好会の面々と会えた。新里愛蔵さんに会えると期待していたが、時間差で会えなかった。今日は午前午後と歯医者に行った。歯石を取り虫歯を治療。十年ぶりに歯医者に行ったのが一ヶ月半前。もうすぐ一段落する。 
04 08 「移住する!」とメールで方々へ送ったのは4/4反戦アロハイサイの前日。一種の解禁になっていたのだが、ネットでは小出しにしてきた。このサイトでは今が始めてのはず。3/27から、4/1、4/5と有明発のフェリーを狙っていたのだが、幾つかの条件で4/10となり、歯の治療の都合で4/15に延期だ。既に多摩にいないはずと思っていた皆さん、ご免なさい。 
04 09 横浜の親戚に会いに行く。渡航後の夢を中心に話をする。これから、ということに人はワクワクするもの。ただしその基盤は取り返せない過去にある。大和と琉球の関係の中で人は生きてきたし、また死んでいった。その生と死の延長上に私が生きている。「死んだ彼らの残したものは、生きてる私、生きてるあなた」。 
04 10 夜、吉祥寺ニライカナイに来たまーちゃんに会いに行く。節で会って以来だ。これまでで一番明るい顔をしていた。リゾートについての発言をきっちりとし始め、また皆に考えるように働きかけ始めたからではなかろうか。唄に、声に力が増している。羨ましくもある。お客さんたちにも空元気ではない本物の元気を感じた。 
04 11 郵便小包は十個以上同時に送ると二割引だ。今日は娘の都合にも会わせて国立の郵政研修所の郵便局から引っ越し荷物を発送。宛名書きにも時間がかかる。休み休みやっていたら小一時間掛かった。窓口は新人らしき人。四月は各所で初々しい人に出会うのだが、さて、私は、、、かつてどうだったろう、これからはどうだろう?  
04 12 7日(月)の歯医者の帰りに携帯に電話があった。三月に伝えた伝言が実を結んだ。H高校のO先生である。沖縄研修旅行を中止した経緯を聞いた上で彼を慰めるべく電話してあったのだが、都合良く、西武線沿線のH駅近くの店で会う約束が出来たのだった。それが今日だ。この二週間で三回目になる。人を寄せる力がある店だ。
04 13 夕べは大勢だった。私、娘、その保育園時代の友と、彼女が通った高校のO先生、と彼女の母親--これで5人。笛吹Jさんと唄三線のAさんも来た。そもそも二人に私が加わったライブ(この店で)でO先生に出会ったのだった。Aさんの友、Tさんも呼んだ。店を手伝うSさんは私の知人の高校時代の同級生。人の繋がりは不思議。 
04 14 昨日は誘われて野外の祭りで演奏。久々の「加那ヨー」地方。「童神」と「ばんがむい」にはギターを添えた。快感。今日は歯医者の治療が一段落した、しかし戦争は続いている。自動車保険を継続して契約した、が戦傷者の命は今日もまた絶たれたことだろう。「死んだ歴史の残したものは、輝く明日とまた来るあした」噛みしめる。
04 15 歯の治療で延期した乗船日が今日だったのだが、諸事滞りまたもや断念せざるを得ず。早くに目が覚めて荷物整理を始めたら雨が降り出し、気がふさぐ。気がふさぐと言えば、一昨日の都知事選だ。これまで何度も選挙権を行使してきたし自分の票が生きたという経験はほぼ零だが、それにしても今回はひどいことになった。 
04 16 引っ越し荷物の中から、寺田勲の慶応での同窓生の資料数編出てきた。慌てて読む。その同級生の普通部時代の級友にJazzピアニスト守安祥太郎(50年代に自死)がいた、その追悼文も数編。一人一人の輝きを文章に綴って、この冊子がある、と思うと感慨無量だ。夕方、電気通信大学に行く。素敵な月を見る。春だ。 
04 17 いい天気。墓参り。娘と八王子の霊園に行く。草むしり、水を掛け、祈る。世界の人々を思い、我等二人の将来を思う。斜面の高いところに行くと草原。写真を撮る。18 歳の春に大学合格の報告をしに墓に来たことを思い出す。あれから三十年近くが経った。自分の墓はいらない、と言う主義だが、ここは大切。 
04 18 昨日は八王子から立川。そこで荷物を運ぶことになって東村山のJ宅へ。彼の父親にも会えたし、その隣の家に住むK君(小学校同級)の娘らしき高校生も見かける。面立ちに共通点があった。小学校卒業して30年以上が経っている。我が人生の第一期を「大人になるまで」と考えてみる。子育て期間が第二期だ。
04 19 人生の第三期の入り口に私はいる。この日の移動経路は掲示板に詳しく書いた。荷物を積み祖父母の墓参り。光源寺住職に挨拶。一昨日娘と話していて彼に会うことを考えたのだった。大島海運に車預け電車で帰宅。換気扇掃除(洗剤無用)を娘に伝授してから演奏に出かける。太鼓郵送の段取りをして所沢駅前で飲む。 
04 20 早起き。娘とその叔母がM駅まで送ってくれる。有難い。感無量。別れの挨拶では十分に声が出なかった。朝帰りの若者達と同じ車両で東京駅へ向かう。予定通りの新幹線で浜松へ。ひさゑおばさんと合流。勲の墓参りだ。忠霊塔も参る。地域を上げて戦死者を忘れずにいる。こういう場所があることを多くの都会人は知らない。 
04 21 昨日午前は親戚と墓参り、午後は磐田でエイサーの仲間と合流。私は主にビデオ係。その後浜松、名古屋経由で那覇へ。道中旅慣れた若者、Kさんについていったのが良かった。数日後に会う約束も。今日は早速、貸家を見る。夕方、安謝港で愛車を受け取る。多摩ナンバーで快走。沖縄島のなんくる暮らしが始まった。 
04 22 首里で待ち受けていたYさん、Sさんと会う。挨拶と今後の話。その後佐敷で待ち受けていたTさん夫妻と会う。挨拶と今後の話。当面の居所は今回新しく見つけた民宿。一週間以上の滞在なら¥2000。工事関係の出稼ぎ者の多い宿でワンルーム型、ベランダに洗濯機、台所には食器から炊飯器、珈琲メーカーまで備わっている。 
04 23 何とも多くの人と会う日。昼はNさん(久高人)とその知り合い複数名。夜はエイサー関係のSさんを案内。その途中、石垣金星氏らにばったり。で一緒に夕食。飲み、食い、唄い。ああ、楽しい。その後Sさんを連れて、首里、那覇。大城美佐子さんに会いに行く。私は1時半頃退散したがその後も盛り上がったとのこと。
04 24 具志頭の貸家を検討、地元に知人がいないとかこっていると、S氏がK氏を紹介してくれた。十数年ぶりに会い、話す。びっくり、私と同年生で、宮古で同年生の仲本光正の友人だった。佐喜眞美術館に行き、年会費を納める。夜は玉城村仲村渠の知人に会いに行く。夜の風も優しい。日々の充実を今後につなげたい。 
04 25 具志頭の城から海岸付近を歩き回る。整備された遊歩道もあるが、墓場への道も見つけたらどんどん歩き回る。海岸は玻那城も含めて歩く。昨夜はその近くの飲み屋で飲んだのだった。ゴルフ場が無ければ、と何度も思った。夕方宜野湾でKさん達と会う。若い世代だ。その後具志頭のエイサーをしているYさんに会う。
04 26 午前は具志頭の知り合いに紹介されて具志頭は港川のU氏と会う。NPO法人の活動計画を聞き、心動かされる。午後、新城の貸家を見る。面白い。夕方、コザ農民研修センターに、宇井純の公演を聞きに行く。満員。18歳のころ通った自主講座を思い出し、感慨無量。帰路、K氏誘ってコザの民謡酒場を回り、挨拶。 
04 27 早朝、K氏からの誘いが来た。「なんくる学校」の基地巡りツアーに急遽参加。勉強の一日。「象の檻」移転先の赤土には涙だ。辺野古の海は美しい。夜は久高人N氏の誘いで、安座真港へ。届いたばかりの太鼓も持っていく。唄三線、太鼓、踊りを満喫。マイク無しのその場で作る宴会が楽しい。嬉しい夜だった。
04 28 一週間の疲れか朝から不調。だが、夜はアルテ崎山で唄三線の手伝い。太鼓を叩くのは実に楽しい。高良鉄美さんの公演と北島角子さんの一人芝居。観客の年齢層が散らばっていて嬉しかった。若い人々の今後に期待。熱っぽいのでSさんの料理で栄養をとり、早めに帰る。ああ、久しぶりの発熱。しんど。 
04 29 座間味から東京に帰る途中、那覇に寄ったYさんを案内して回る。泊、佐喜眞美術館、沖縄道で一路ひめゆり資料館へ。魂魄の塔、平和の礎、ヌヌマチガマ、前川付近、斎場御嶽、知念城、などなど。晩飯食べる間もなく空港でお別れとなったが、実に楽しい一日旅行。馴染みの獅子を紹介できたし、宮良さんにもお目にかかれた。 
04 30 月末であるし、沖縄島に来て十日が経ったので、近況報告を書いて百人以上にメールした。午後はまた不動産屋の紹介する物件を一つ見た。ここもゴルフ場に近い。もとは米軍施設だった所。夜、初めて「ネットカフェ」に入る。久々のウインドーズ。不動産情報や掲示板書込に使う。一時間はアッという間だ。 

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