第4回 満月まつり ポスター原画   磯崎主佳 

     作者の許可を得て掲載しています。 (ポスターでは水彩ですが、これは色鉛筆の彩色です)  
(画像をクリックすると大きく見られます。このあとの写真も同様です。)



1 沖縄で。

 水。この頃また老子を読んでいる。水は理想の存在。分け隔てをしない。低いところを満たす。

 11月13日(陰暦10月7日)月曜日。珊瑚舎スコーレを見学したとき、たまたま時間割に音楽があり、屋良文雄さんに会う。実に楽しそうにピアノを鳴らして生徒達と歌っていた。
 明日の昼の便で羽田に飛ぶ私は、日暮れて上弦の月が光り始めた時、ジャズライブハウス寓話に行ってみようと思った。先週の土曜に行きつけの飲み屋の主人が「屋良さんの店言ったこと無いの?」と意外そうな表情で言ったことも気になっていたので。
 トリオだった。意外だ。実に意外。昼間の音楽講師の時と別人のような演奏なのだ。昼間も良かったが今、ここで彼は完全に別の音を出している。演奏が終わってにこやかに歩み寄る。座って一緒に飲んだ。音の話、これまでの話、数々の演奏の話。そして、宇宙の話、水の話。
 水になる、これが理想、と屋良さんははっきり言う。十本の指が絡み合うような口調の人だが、断言するところはきっちり話す。ふいに星雲の話なども。そんな宇宙の話になったときには私は金城哲夫を思い出していた。光の国から地球に来たというヒーローはきっと何万年も前から屋良さんの親友に違いない。

 まことに良い酒を飲ませていただいた。翌日、睡眠不足で乗った飛行機はいつの間にか離陸しており、寝ぼけ眼で外を見ると、右の窓からは知念岬や久高が見えた。その数分だけ、雲が切れていた。

 知念岬には二日前の日曜日、喫茶店「風の里」でまつりのための御願をした日の夕方に初めて訪れた。今年の「満月まつり」の会場は、イザイホーの行われなかった久高を望む場所で、行うということだった。今回の満月まつりでは「水」を象徴的に使うという。各地から送られてきた水を斎場御嶽で合わせてから知念岬まで運び、コンサート会場に安置したあと海に流す、という演出。「平和を祈る」人々の思いを集めることと、水を一つにしていくという行動を重ね合わせるわけだ。空の月や星の下、風をまといながら大地の上で踊り唄い、海を眺め島を見晴るかす。素敵な企画だ。私は主催者や実行委員と話すうちに、多摩の水を加えようと言うことになった。火曜日に羽田に飛ぶのだから、水を小さな容器に入れて郵送する方法を採れば日曜に間に合う。
 それで早速、翌日の月曜、寓話に行く前に久茂地で60円の小さな容器を四つ手に入れた。四に特に意味はない。私の住む深大寺に湧き水は複数あるから余裕を持っておこうと言うくらいの気持ちだった。屋良さんのピアノを聴いたときも、飛行機から久高を眺めたときも私のポケットにはその容器が入っていた。


2 水曜日、水を辿る旅。

 深大寺から1km程の所に住んで約十年になる。つい先月、不動の滝という名の湧水を知った。羽田に着くときにはそこの水のことばかり考えていた。獅子だったか竜だったかの首が据え付けてあって、その口から水が流れ出る意匠になっていたはず。が、そこから数キロ離れた野川公園の中にある湧き水の事を思い出してもいた。この夏のこと、深大寺から野川沿いに上流の方へジョッギングしたときにも子ども達がそこで水遊びをしていた。大概の子が素っ裸だ。しなやかな川端の柳にいつも柔らかな風の吹いている所。見渡す限り深い緑の印象。
 それで、自転車こぎつつ右手でポケットに容器があることを確認して、西へ向かおう、と、その時、私が初めて湧水を実感した場面を思い出した。友達と探検気分で遊んでいるとき、とある小公園の橋の下に入っていき足元を見ると浅い水底の小石が動いている。ここかしこから水が沸き上がっていたのだ。七、八歳の頃。練馬区南大泉に住んでいた時期の思い出。



3 井頭(白子川の源流)へ。


 「井頭」とかいて「イガシラ」と読む、それは覚えていた。母は唄が好きで大泉第二小学校PTAのコーラスの練習によく私を連れて行ったものだ。「生きているから歌うんだ」と歌っていたが、大泉に越して一年あまりで病死した。その母の母の旧姓が五十嵐。そんなわけでその公園の名前をきちんと覚えていたのではないかと考えている。小さな公園だ。白子川のながれの「頭」でなく「首」のあたりにその湧水があったと記憶している。確か近くにIK君が住んでいた。彼は私達の前でウルトラQの怪獣をすらすらと描いた。本当に生きているように見えた。生き生きした線を繋ぐことで上手い絵が出来るんだなあと感心した感覚を思い出す。初めて井頭の湧水を見たとき一緒に遊んでいたのが誰だったかは記憶にない。僕とその友達は二人で感動して眺めていた、間違いはない。
 今数字で辿って見れば、私が大泉に越したのが'64年8月、母が亡くなったのが'65年12月、ウルトラQ放映開始が'66年1月、人口増加によって新設された大泉第四小に転校したのが'67年4月である。
 そんな事をぼーっと考えているうちに、40分位で東の方からその小公園に着いた。子供連れの親たちがいて長閑だ。流れの脇の道路整備工事ものんびりしている。自転車をゆるゆるこいでいると、あった。ここだ。まさしく流れの「首」。今は護岸が整備されて降りていけない。残念。でもあった。しかもだ、よく見るとその「頭」から「首」までは流れが澱んでいて「首」から下が緩やかに流れている。やはり!ここが源流なのだ。
 −−−「南大泉」という土地に越してきて「井頭」で湧き水に出会った私は人生を廻るうちにまたここに来たのだよ。
 さて、ここの水を戴こう、と思ったが親水向けに整備されているのは「頭」のほうで、私が欲しいのは「首」の水。しかもその首の所から昔のように湧水地点に入り込みたいのだが危険防止の柵がしっかり付いている。まあ、湧水地点の確認は出来まいがそこは譲って、是非柵の所で水を採りたい、さあ、どうしよう。


4 縄とバケツを探して学校を発見。

 日曜日に「風の里」で井戸の水を汲むとき、朝男さんはポリバケツと縄を使っていたっけ。そうだ、ゴミ置き場か荒物屋を探そう、と自転車に乗る。「頭」の先に「毛」があった。もしかするのそちらにも湧水があったのではないか。それにしても歩行者用の通路の幅しかなく、やがてその痕跡も消えた、そこにコンビニがあった。縄はなくビニール紐だけ売っている。バケツもない。気分が落ちる。店を出たら、車でお茶を飲んでいたらしい男がペットボトルを缶捨て場にほうりこんだ。!分別に協力しつつ廃物利用だ、とそのボトルをゴミ箱から拾い、あとは縄、まあ、ベルト代わりに腹に巻いている紐でも何とかなるかと自転車に乗ったら、あらあら、ここは私の通った小学校のすぐ近くだ。
 記憶から消えていたが、湧水は学校の東側二、三分のところじゃないか、私の家は学校の北の方にあったから、馴染みがなかったのだ。学校は南向きの緩やかな斜面になっているから、この辺りこそがもう一つの源流「頭の先に延びているの髪の毛」かも知れない。その運動場で私は「全速力で走る」快感を味わった記憶がある。短い休み時間に鬼ごっこしてた時のことだったよ。

 橋の所に戻ると工事は昼休み。あ、お誂え向きの虎ロープがあるではないか。弁当喰っているお兄さんに頼んでみると、快くロープを貸してくれた。植木の根本で握り拳大の石も何とか探して、水道で洗ったボトルにくくりつけ、柵の上から垂らしてみる。浮力が強くてはじめは失敗。引き上げてボトルをつぶし気味にし、石をつけ直して再度試みる。三度目の正直で水が入った手応え。
 見事に思い出の湧水を採取した記念で「首」の柵を遠景に、ロープとボトルと石を撮影。
 その後、現場のお兄さんにお礼を言ってロープを返し、石は樹の根本に、余った水は「練馬区指定の天然記念物」なる二本の大柳にかけてさしあげた。小学校時代にこの柳を見た記憶はないのだが、柳はきっと私を見ていただろう。看板があって高さ9m、根本の径が2.2mとある。もしかしたら、木登りが好きな私はこの木に登っていたかも知れないなあ。感謝をこめて水を捧げた。

 ボトルは、って? そりゃ当然コンビニのペットボトル捨て場に収めておきましたよ。そのコンビニのすぐ近くにS米店が見えた。自分の家の中で拾った十円を学校の脇の交番に届けたって言うんで友達から一目置かれていた級友の家である。妙に懐かしい。



5 大柳と七福橋、そして鉄塔。

 井頭公園に戻って水のお裾分けさしあげた大柳を撮る、正確にはマルバヤナギとある。私の知っている柳と違う姿。枝振りは読谷山波平の辻の榕樹にそっくりだ。恋人然として二本生えている。見回して位置を考えてみると丁度湧水の上に生えているようで不思議。現在の公園や私が幼い頃見た橋が出来る前、ここはどんな景色だったのだろう。多分この柳の根は昔も今も湧水の脇から地下深くにしっかり伸びているのだろうと思ったら、ほわっと嬉しい気持ちになった。
 「頭」の所にもう一度行って写真を撮り、見上げると高圧線だ。そうだ、低学年の時割り箸を鉛筆削りで削ったものに墨汁か何かをつけて線画を描いた。学校から歩いてうねうねとした起伏のある空き地へ行ったのだった。探してみよう。

 私立の学校の脇にこの鉄塔があった。これだ。この鉄塔をどこかから眺めて私は絵にしたのだった。自転車でそこらを行ったり来たりしたがその空き地は見つからない。きっとこの学校がその空き地に出来たのさ。真実というものはほどほど知ることができればそれでいいのだ、こういうときは。今日は一つの物語りを作っていく散歩をしているのだから。
 先刻、湧き水への接近を冷たく阻んだ幾何学的景色を疎ましく思った私だが、この鉄塔の締まった幾何学模様は気に入った。秋の空がいっそう青い。
 この高圧線は「北多摩線」と言うらしい。さっきウロウロしたとき全ての鉄塔に書いてあった。113号鉄塔の近くには広いキャベツ畑だ。幼い頃の私は生き物の大量捕獲に快感を覚えていた。大阪府高槻では蝶を捕まえては部屋の中で離し、滋賀県栗東では目高や小魚で水槽を満たし、ここ練馬では御玉杓子を線路の上に並べたりもした。青虫と殿様蛙は取り放題。どれだけの蛙の命を奪ったかと思うと恐ろしいが、その遊技に酔っていた私の目を覚ませたのは、小川のほとりで解剖中の一匹が内臓を取られたまま四肢のピンを外して逃げて泳いでいった瞬間だった。白子川より北西、新座市片山の田圃でのこと−−−今こう書くことで私は贖罪を望んでいるのではあるが。
 113号下のキャベツ畑の小径を女性の乗った自転車が颯爽と走っていく。多分毎日の事なのだろう。何ともいい天気だ。


6 富士見池は川の頭ではなかった。石神井川を知る。

 キャベツ畑の南に富士街道、さらに南へいくと西武新宿線で、良く釣りをしに行った富士見池がある。池の中の島には水鳥がいて、釣りに飽きた私たちが貸しボートに乗り捕った魚を投げてやると、上手に口で受けて喰っていた。バケツ半分くらいの口細もあっという間になくなったのだった。
 あのころも静かな池だった。ぐるり廻るが湧水は見あたらない。南側に流れている石神井川の横にふくらんだ半ば人工の池らしい。大正時代に整備したという説明書きからもそう読めた。
 石神井川は石神井公園に通じているのだろう。公園のボート池の西の三宝寺池が湧水だからそこが源流だと思っていたがそうではなかった。私は青梅街道を渡り、石神井川から付かず離れず走っていくと狭山湖多摩湖からの水道道路まで来た。
 小学校5年で大泉から東村山の公社団地に越した私は、多摩湖、八坂、萩山、小平と真っ直ぐに通っていくこの歩道にも馴染んでいる。石神井川はこの水道もくぐっているのだった。
 小学校低学年の思い出、富士見池や石神井公園の水と、高学年・中学生の頃の思い出の萩山や小平を流れてきた水がこの地点で交差していた。
 ここでさらに南へ走ると小金井公園だ。ギターを弾き始めた中二の頃、同じ団地に住んでいたK野さんという青年にさそわれて大学生(らしき)人たちの演奏を聴きに来た公園だ。
 隣接したゴルフ場の柵の下の隙間から身長の三倍もあろうかという棒を差し込んで何かを手元に引き寄せようとしている老人がいた。銀杏を採っているのだという。「漢方の薬なんだ」言い訳のように独り言しているその男に「石神井川の源泉はこの近くでしょうか」尋ねると「そりゃぁずっと遠くだよ。自転車じゃいけないね」という答え。途中の街路図ではこのゴルフ場の近くで川筋が消えていたので聞いたのだが。
 この一言で石神井川の湧水はあっさり諦めて国分寺市のお鷹の道の"名水"を目指すことにした。そろそろ日も傾いてきていたのだ。


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