1923亥年 3月 26日 - 1945酉年 3月 24日

時代の風に逆らいきれず、陸軍伍長として那覇へ向かう途上海に沈む。

銃口を人民に向けず世を去ったことは、一つの救いと言えるかも知れない。




■1923年 3月 26日 静岡県に生まれる。

■1943年秋、慶應義塾在学中に召集されいわゆる学徒出陣で入営。陸軍歩兵第34連隊。

■翌44年水戸陸軍通信学校に入校・卒業。中部第129部隊を経て第32軍航空情報隊へ転属。

この間に彼と面会した身内の話によると、厭戦的言動が目立っていたという。

■45年3月13日鹿児島から那覇へ向けて出港した船団(輸送艦4隻と護衛艦5隻)の中の荘河丸に乗り込む。

若い兵士を率いた伍長であった。

■16日奄美大島の古仁屋を出港、18日、船団の一隻が魚雷攻撃を受けて沈没。

20〜22日、泗礁山錨地に避難し再び那覇へ向かうも状況の悪化から北へ避航。

■24日朝からの米B29二機及び艦載機の波状攻撃により、荘河丸は15時50頃沈没(29゜N、125゜E)。

他7隻も全て撃沈され、船団全体で1000名近い乗船者の内、生存者は僅かに6名と伝えられている。

■その内の一名によって勲の死亡現認証明書が作られたのは47年6月1日 。戦死公報の日付は同年8月20日。

■彼の母は若くして亡くなっていたので叔母が母親代わりであったが、

その息子(勲の従弟)はそのころ同じ大学の後輩となっていた。

■時が流れ、敗戦の12年後、彼に一人目の子供が出来たとき自分の母親と相談して「いさを」という名に決める。

■敗戦後50年の1995年、【平和の礎】に寺田勲の名が刻まれたことがきっかけとなって

功が勲を調べ始め、応召から戦死までの経緯を知ることとなった。

■【平和の礎】が存在する限り【寺田勲】の名は摩文仁に在る。




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