■四月一日(日曜日) その3
        川は流れてどこどこ行くやら



               ぼくの好きなうた(連載第43回)  らふて いさを                   



 コザ。
 昼前。
 いつも雲の浮いているコザ。風の集まってくるコザ。
 沖縄子供の国の池から流れていく小川は中部徳州会病院の前、安慶田(あげた)中学校の脇を通り安慶田小学校幼稚園保育園の脇を通り国道330号線、かつての軍用5号線をくぐって、御存じ農連市場の脇を通り過ぎ、そこがハンザ橋、仲松商事の倉庫の所。ここに立ってみると南北両方から坂道は降りてくる、といってもきつい坂ではないから、土手を固めて出来た道から仰ぎ見る空はやはり広い、そして青い。
 ちょいと二日酔い気味のらふて、その南側から現れる。
 農連市場の奥の小さな小さな食堂で、「おかず」四百五十円。満腹を抱え、汗の滲(にじ)んだ額には、川の北側の丘の緑を渡ってくるそよ風が心地よい。佇(たたず)んでペットボトルのさんぴん茶、喉で味わう。
 この流れをハンザ川と呼ぶらしい。
 踵(きびす)をかえして、住吉へ坂をのぼる。南に向かうので午前の日が眩しい。いつもの民宿を左手に通過して右に折れてみる。住宅地のあいだに猫の額のような畑。今を見ている私の眼の奥に、敗戦直後の景色が想像される。そのころから人々は住みかのまわりでこのように食物をそだててきたのだろう。
 住居表示は、嘉間良(かまーら)。そうだ、聞いたことがある。米軍に収容されていた人々がやがて赦(ゆる)され、自然に共同して住み始め、出来た町。

 そんな町にはやがて、移住地の大和(やまとぅ)で兵隊にとられていた男も戦後の島に帰って来た。

 大和(やまとぅ)から戻(むどぅ)てぃ 沖縄(うちなー)(ち)ちみりば
   元姿(むとぅしがた)ねーらん 影(かじ)ん変わてぃ
  戦世(いくさゆ) 我(わ)ん 恨(うら)みゆさ

 島戻てぃ見れば 親兄弟(うやちょーでー)うらん
 戦世ぬ なれや 涙びけい
  戦世 我ん 恨みゆさ
  (「戦後の嘆き」登川誠仁(ぬぶいかーせいじん)

 誠仁さんは32年生まれ。山原出身の知人の戦後の嘆きに共鳴した十代の誠仁少年(?)も涙(なだ)そうそう。後々やはり涙(なだ)そうそうしながら作った歌と思われる。コザは新唄(みーうた)のわき上がる土地となった。
 戦後の嘆きがここに集まり、戦後の新生活に期待を寄せつつ、生き残った者の生き続けるエネルギーが唄へ唄へと結晶していったのだ。。

 嘉間良。そこも緩い坂の町。見上げるとこんもり生い茂ったところがある。御嶽(うたき)か墓所か。細い畑の間の道を辿(たど)っていくと、、、。
 子どもが群れて遊んでいるすぐ上の窪みに瓶(かめ)である。瓶から覗いた骨、骨。  琉球の墓、と聞くと「亀の甲墓(かーみぬこうばか)」「破風墓(はふーばか)」など浮かんでくるが、こういう単純な墓が原型なのだそうだ。
 ぐっとせり上がった岩壁の窪みを囲んで、墓にする。次に窪みの前を石や煉瓦で覆って、墓にする(こうなれば骨は見ええない)。覆った部分がぐっと迫り出して独特の曲面を描くと亀の甲墓、よく墓の入り口だけを見れば石で覆っている意匠(いしょう)に大差はない。  墓の裏へ回る。
 その先にも茂み。やはり墓。
 そして、高い丘。整備された公園になっていて、ちょっとした展望台もある。登ってみる。彼方に川。深呼吸。風。
 チョイト先にコリンザが見える。経営は難航し、そろそろ電気店だったかパソコン店に変わるという。ビルの三階の劇場、あしびなーは続けるという、良かった良かった、館長の玉城満はどうしているか。今頃何を唄っているか。
 数年前の藤木勇人作「月に歩む人々(かみがみ)」の死神役が目に浮かぶ。ドスの利いた声で「めんそーれ、天国へ」
 きけばコリンザは墓場の一部を他所(よそ)へ移して建てたのだとか。今地図で見てみると、私が展望していた「センター公園」の西隣もその西隣のコリンザの北側敷地も墓場の記号がある。少し離れた北北東にはコザ中央霊園とある。
 その東の脇を流れるのが、御存じ比謝(ひじゃ)川。実は先ほど私がさんぴん茶飲んで佇(たたず)んでいたハンザ川は海へ向かうとともに比謝川とも呼ばれるようになり、松本、知花、キャンプシールズ通り抜け、西へ。御存じサンパウロの丘、この頃は「安保の見える丘」とも呼ばれる、嘉手納空軍飛行場を望む小高い盛り土のような名所のチョイト北側を、川は流れてどこどこいくの。そう言やぁ今年は講和条約締結、つまり安保体制が始まってから五十周年なのでした。
 さて比謝川は嘉手納(かでぃな)町と読谷(ゆんたん)村の境を流れて、45年終戦直後に米軍が軍事輸送のために拵(こしら)えた軍用道路1号線の嘉手納ロータリーの少し北、御存じ比謝橋の下を西へ流れていくのです。

 恨む比謝橋や 吾渡さと思てぃ
 情きねん人の 架きてぃ置(う)ちゃら

 読谷山(ゆんたんざ)で生まれ、八歳で那覇は仲島の遊郭に売られ、十八歳でこの世を去った、吉屋鶴(ゆしやちるー)の歌である。
 「恨むぞ比謝橋、この橋は、私を故郷から引き離し、南へ渡そうと考えて、情けの無い誰かが架けておいたのであろうことよ」

 この橋の下流2キロ足らずで東シナ海に注ぐ、その河口が渡具知(とぅぐち)である。45年4月1日・日曜日朝、米軍が上陸するときの目標地点である。今日はここで一フィート運動の会の学習会が催される、そこにらふては参加しようと言うわけさ。

 今回は二日酔い気味のらふてと一緒に比謝川を下っていく、四月一日日曜日(晴れ・微風)の午前でした。期せずして歴史の道のりを現代のコザから戦後のコザ、はたまた昔の墓から戦後の嘉手納、ついでに18世紀の吉屋鶴からまたまた20世紀中頃は'45年四月一日日曜日(晴れ・微風)午前へと、行きつ戻りつの千鳥足でしたなぁ。続きはまたの機会にしましょ。

 
【参考】

 沖縄県都市地図 昭文社

 ふりむけば荒野 大城立裕 新潮 一九九五年八月号

 ウチナーのうた  音楽の友社 一九九八年

     沖縄は歌の島  藤田正 晶文社 二〇〇〇年

 







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