■四月一日(日曜日) その1



         ぼくの好きなうた(連載第40回)  らふて いさを                   



 三線を持って旅をする。それも飛行機に乗って、と言うことになると、三分割式三線は便利この上ない。
 この春の旅で私、新品の三分割式三線を沖縄は読谷山(ゆんたんざ)の知人に届けることになりました。

 かく言う私自身は、といえば、11年前に仲嶺三味線店(那覇市安里(あさと))で手に入れた三線ただ一丁を友とし、年平均三、四回の琉球への旅にも御決まりの黒いケースに入れて連れ歩いてきたのです。ケースの隙間には、土産のお菓子だの、着替えのパンツだの、はては胴の周囲の空間に写真フィルムや多用途小刀、手拭(てぬぐ)い、そして棹に並べて折畳み傘等々と、あの赤い色の二枚のしきりを外したり戻したりしながら、それでも三線を傷付けぬよう布など挟み注意深くかつ大胆に品々を詰め込み、従って主であるはずの三線様が見えなくなるほどになってしまう。またそんな風になると相当な重量になるもので、折畳み式キャリーカートに括り付けての出発という有り様。羽田では手荷物として預けようという方式です。
 三年前、初めての国際旅行で連合王国とアイルランドに参ったときは、太鼓も携行したものですから、愛用の三線は胴と棹とに分解し、背嚢(はいのう)に入れて機内持ち込み荷物としました。
 アイルランドの話を始めてしまえばとめどなく長くなるので琉球の旅の話に戻りましょう。
 土産(みやげ)抱えて那覇空港へ到着、数日後の離沖には買い込んだ古本や汚れた下着を空港から宅配、という私の旅は、重くかさばる物を抱えた旅ですから、勢い毎回、レンタカーでのお世話になるわけです。ですから分割式の三線に気を引かれることさらさらなく、仲嶺さんの拵(こしら)えた三線は黒いケースに収まって、何十回となくジャンボジェット機のお腹の荷物部屋に入ってきたわけでありました。




これは長旅ではないときの我が三線ケースの状態です(02/07/14)



 読谷山の知人とは(連載を読んで下さっている方にはもう察しが付いていることでしょう)----

 津々浦々の市民団体から、
 学校や組合から、
 あるいは大小の政治党派からも、
と大和の人々から招かれては日帰り、一泊、二泊程度の軽装の旅を重ね----
 チビチリガマの集団死の事実とその後、
 読谷山(ゆんたんざ)波平(はんざ)の歴史と文化を、
 沖縄の基地の現在と返還後の未来への構想、
 琉球と大和(やまとぅ)の作ってきた数百年の関係性、
 総じて琉球や東アジアの過去・現在・そして未来への展望を積極的に語り----
 そしてこの頃は唄三線をも大和の人々に直接披露する熱き人、知花昌一さんなのである。
 昌一さんと知り合ってはや、十年。今年、横須賀にある某高等学校に招かれて講演した際、同じく演奏を依頼されていた仲本光正さん達と控え室で出会い、一目で分割式三線の魅力にとりつかれて購入の運び。
 「まさに筋金入りと筋金入りの出会い」(仲本氏談)
で、私らふてが、今年もまた春の旅で読谷山を訪れるので、その分割式三線の運び屋となったわけです。

 四月一日は何の日でしょう。

 四月一日は空に一片の雲もなく、地上また輕塵なく、沖繩の陽春の候としては珍しい日和(ひより)であった。〜

 波平の人々は近所にあるチビチリガマやシムクガマに避難していた。

 例によってその三日前から、艦砲一日二萬發前後の多量を叩き込んで〜

 ガマ生活も長い人は数十日を越えて、人々の疲労は極限に達している。地上のほとんどは艦砲射撃でめちゃめちゃだ。

 午前八時半、第六海兵師團の「先遣挺身上陸隊」が濱邊(はまべ)に突進したが抵抗なく、〜

エイプリル・フールの冗談のように發展し、豫定(よてい)の数倍の進軍が無血裡(むけつり)に行われ、〜

「ハワイの海邊(うみべ)を散歩するような氣樂さ」を以て遂行された(米從軍記者の描冩(びょうしゃ))〜


 そのころ波平の自宅にいた昌一さんのおじいさんの弟は、障害を持つ家族を守ろうとして竹槍を持ち出し、あえなく米兵の銃弾で射殺されたのだった。うーとーとー。
 米兵達は、「四月馬鹿」に騙(だま)されたんだとか「ラブデイ(キリストの復活祭)」だからだろう日本軍将校にクリスチャンがいるのかとか、単に日曜だからとか、とにかく最前線らしからぬ情況に驚いたらしいが、いやいやガマの中は戦々恐々のパニック状態、遠くのキャタピラの音におののく少年達、老人達、女達、子ども達、そして赤ん坊。

 戰争の行われている感じは微塵もなく、午前九時には、一兵の血を流さずして中飛行場を占領してしまった。〜

 讀谷飛行場は、午前十時に第六海兵師團の占領に歸したが〜


   日本軍の指示で動員された住民が作り上げた「不沈母艦」沖縄の主力飛行場はアッという間に米軍の「不沈母艦」になってしまったのだ。(その中飛行場は現在東アジア最大の空軍基地=嘉手納飛行場(カディナエアベイス)である)

 そうして夕方までには十平方キロに及ぶ地帯に四個師團の主力が展開し三萬八千トンの軍需品が陸揚げされ戰車は二百台、砲兵は一個連隊が勢揃いした。

 四月一日は、もう一つ「象の檻(おり)」の土地の不法占拠(知花昌一の土地を日本国が不法占拠し始めた!)の「記念日」なのですが、またもやここにて今回の紙幅は尽きそう。「象の檻」が米軍にとっても無用の長物になっているという話はまた今度の機会に、ということでそろそろ終わり、いやいや、書いておかないといけないことがまだあった。
 件(くだん)の三線は、らふてが三鷹で買ったユニクロの1900円のショルダーバッグにすっぽり収まって無事に読谷山に到着。早速4月1日の深夜から4月2日の未明まで、昌一さんと私の唄三線の宴、

 いったーあんまーまーかいがー

どうしてこの唄かって?夜十時にレンタカーで民宿『何我舎(ぬーがやー)』に到着した私達を待っていたのは何か(ぬーがやー)というと

---知花さんの親類の祝い事に合わせて潰した山羊(ひーじゃー)の、香豊かな汁のお裾分け。あの肉(しし)、中身(なかみ)、骨(ふに)、油(あんだー)、ああ思い出すだけで唾が出る。なんと幸運ならふての四月一日!
   命薬(ぬちぐすい)、命薬。
 
   【参考資料】

    帝國陸軍の最期(特攻篇)

      伊藤正徳

      61年 文藝春秋新社



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