■四月一日(日曜日) その2



               ぼくの好きなうた(連載第41回)  らふて いさを                   



 56年前。
 米軍が読谷山(ゆんたんざ)・嘉手納(かでな)の海岸から無血上陸を果たした日はやはり日曜日であった。ただの一兵も日本軍の姿が無いことに「エイプリル・フールだからか?」「復活祭の日曜日だから?日本軍の司令官はクリスチャンか?」と訝(いぶか)しんだとか。住民の多くはガマ(洞窟)の中で怯(おびえ)えるばかりの時を過ごしていたのだが。

 その七年後のこと。
 '52年四月一日、首里城跡の琉球大学の構内で琉球政府の創立式典が催された。軍民両政府職員、市町村代表など2000人が参列し、一段と高い式台の中央にいるのは、米軍の高官達。その脇には初代主席、副主席(立法院議長も兼ねていた)、上訴裁首席判事、つまり三権の長と琉大学長の四人。反対側には一月前の選挙で選ばれた31名の立法員議員。
 念のために書いておく。三権分立の民主主義的な機構が完備したとは言っても、最高位の権力者は民政副長官であったといってよい。布告によって「必要な場合には〜制定された法令規則の施行を拒否し、禁止し、又は停止し、自ら適当と認める法令規則の公布を命じ」る権限を持っていたのだから。
 さらに初代主席は任命制だった。立法院選挙で「復帰促進派」が勝ったせいもあって、米国民政府が公選制を避けた結果だった。'50年に発足した群島政府には公選制の知事がいたのだから、その点は「後退」であったと言える。とにもかくにも米国が完全に実権を握っていた時代であったのだ。沖縄の軍事基地が第一とされた朝鮮戦争の時期である。
 初めて公選主席が誕生したのは遥か後年、16年後の'68年のこと。御存じ屋良朝苗(やらちょうびょう)先生が西銘順二(にしめじゅんじ)を押さえて当選したのであった。

 屋良朝苗主席というと思い出すのは「復帰の日」の苦渋の表情ですが、あれは'72年5月15日。私の聞いたところでは、日本国の会計年度始まりの4月1日と、合衆国の会計年度の始まり7月1日の中間をとったとの噂。さて、会計年度と「施政権返還」の実質的な関係は何だろう、そのうちジャッキー君あたりにご説明願いたいところですが。

 島が日本になった五月
 どこ吹く風の、ぼくは子どもで
 人は悩み戸惑い 世界は揺れた
 でも家族の笑顔は いつも変わらない
  幾世(いくゆ)、いちまでぃん 風(かじ)吹ちゅるままに
  流り行くままの 白雲(しらくむ)の如ぐとぅ)

  (「流り行く白雲の如に」 なーぐしく よしみつ)

 島--僕--人--家族。それを覆う「日本」というもの。

 話は一っ飛びに今年の四月一日(日曜日)になります。
 真夜中のコザは中の町、らふては一人、山羊(ひーじゃー)の血(ちー)イリチャーに舌鼓を打っておりました。
「うちのは、特別旨いはず。この道ン十年だから」とニコニコ顔の御主人も考えてみれば、鉄の暴風、敗戦、収容所、異民族支配、「復帰」を生きてきた筋金入りでありました。
 そうそうコザと言えば、らふてが初めてこの町の名を耳にしたのは、'70年12月20日のコザ暴動のニュース。中学校一年生の冬でした。そしてその頃に作られた映画「沖縄エロス外伝・モトシンカカランヌー」(NDU)の中で若い娼婦が三拍子で口ずさんでいた「十九の春」、正に数え十九だったのだろうか、実にセクシーな唄声だった。

 一銭二銭の葉書さえ 千里万里と旅をする
 同じコザ市に住みながら 会えぬこの身の切なさよ


 コザ市が消えたのは'74年四月一日、美里村と合併して沖縄市になったからです。そのコザで私は2001年四月一日の始まりを血イリチャーと瑞穂で迎えていたと言うわけでした。
 ほろ酔いの段階でコザ民謡酒場ツアーの始まりです。さて一軒目。開いたドアからはあの独特のモタリを持った三板のリズムが漏れています。饒辺(よへん)愛子さんの店であります。客席からのリクエストは定番、肝愛(ちむがな)さ節。

 里(さとぅ)がする愛(かな)さ 肌愛(はだがな)さ愛(がな)
 年重(とぅしかさ)び重び 肝(ちむ)ぬ愛さ
  肝愛さらや 思(うみ)い愛さらや

  (「肝愛さ節」 とりみとり)

 オリオン中瓶飲み干して一路、諸見里(むるんざとぅ)方向へ。二軒目。我如古(がにく)より子さんは閉店間際だというのに極上の笑顔で迎えて下さいます。大和から来て間もないという若いお姉さんもカウンターにおりまして、じっくり話をしたいところでしたが、ここもオリオン中瓶一本で失礼してタクシーで照屋(てぃーら)に。
 血中アルコール濃度も丁度い塩梅(あんべー)で嘉手苅林次(かでぃかるりんじ)さんと「今晩は」「あい、また来たね」。そうです、「では、また」と別れてからまだ二十三時間しか経っていません。
 貘さんの「告別式」を語り、そのうちに林次さん自宅近くの御嶽(うたき)と墓の話、そこで私が見つけたカメからは風葬の白骨が覗いていたヨなど話し、八重島公園やコリンザの立地など、なぜか今日は墓がらみ後生(ぐそー)がらみの話となったが、唄は変わらず「宮古(なーく)のあやぐ」、「前田(めーんたー)節」から「サフエン節」に「稲擂(いにしり)節」、「かいされー」。
 ここもオリオン一本で「またや」と別れ、スキップしながらコザ十字路方面へ。キラキラ光るネオンサインの扉を押したら四軒目、あらあら今晩も満員御礼状態だ。神谷幸一さんと玉城一美さんに会釈だけして店を出る。
 島サバをパタパタさせて農連市場、ちょこっと御惣菜を仕入れたら、そろそろ宿に戻りましょう。

 らふての「四月一日(日曜日)」は、まだ明けぬうちに、連載「その2」を終えまして、次回「その3」は、コザ八重島の新緑と墓、読谷村渡具知(とぅぐち)の海浜公園の青い海と墓、玉城村は前川にある超巨大榕樹(がじまる)と墓、知念(ちにん)城跡と按司(あんじ)の墓、といった「四月一日--昼の部」となる予定です。今回の「四月一日--未明」に懲(こ)りずに、次回もよろしくお付き合い下さいな。

【参考】

琉球政府   大城将保  ひるぎ社  92年5月15日

昭和史の中の沖縄 大城将保 岩波ブックレット135  89年



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