十月十八日木曜。帰宅した娘が東京都立Z高校の「お知らせ」を鞄(かばん)から出した。いやに冷ややかな顔をして。 「うちの学校は行けると先生が言ってたし、都立T高に通ってる近所の友達は無事に沖縄から帰ったばっかり」と興奮気味に話す。 そういえば私が買ってきたのではない、黒糖南京豆が一袋、台所にあった。そうだ、友達からのお土産(みやげ)だったんだ。 学校の通知には、「『安全』の確保がなされていることは認識している」と明言した上で「生徒及び保護者の中で沖縄修学旅行に対する『不安』が広がっており」「『不参加者』が多数出ることが予想される修学旅行の実施を進めることはできない」とある。 一読してわじわじする私、娘はそれ以上に興奮している。 丁度その週末に、以前から予定されていた二学年全体の保護者会がある。間違いなく修学旅行中止の説明があるだろうってんで、急いで質問状を書き上げて翌日、金曜にファックスした。 沖縄への旅行の中止は残念至極。 沖縄を旅行先として特別扱いすべきでない。 安保条約の産む不利益を不本意に押しつけられて来た沖縄に対しての新たなる差別につながらないか憂慮する。 『安全』な時には沖縄を訪れ『平和のための学習』をし、このような時期には『不安』を理由に沖縄を遠ざけるような態度を私は取りたくない。 娘にも取らせたくない。 風評に流されぬ理性的な説明を望む、と。 B5で2ページに詰め込んだ。が、二千字以上になっていた。 土曜。会で校長と担当教諭は説明した。 「米英の空爆、アルカイダスポークスマンの声明なるものが報道され修学旅行をめぐる状況は一変した。近くの四、五校の都立高校が次々と中止を決めていき、またその頃に保護者からの『不安』の声が学校に電話で寄せられた。」/b> 私は「そもそも旅に不安はつきもの。基地の島、沖縄への旅行を計画し始めた時から不安は覚悟していたはず、何のために学習を重ねてきたのか。今もフェンス脇での学校生活があり、人々は飛行機を利用している。論理的な説明を」。 担当教諭が辛(つら)そうに言う。「こういう時こそ有意義な旅行ができる、と生徒も教師も意気込んで事前学習を続けて来た。学年会の教師の意思統一にいたらなかった。つかみかかる寸前の激しい議論をした。」 何とか行けないものか、という発言が相次いだが、中止決定を歓迎する旨の短い発言に座席から数名の拍手が起こる場面もあった。これには?だったが、今考えてみればその人々が電話で学校に中止を要望した連中だと察しは付く。 「納得しがたいが決定は尊重する。生徒達とともに沖縄旅行を計画したい、冬休みか春休みに。個人の責任で。」と私。校長に、その私の行動への黙認を取り付けた。 大和(やまとぅ)の秋の冷ややかな空気を吸いながら考えてみる。わき上がる感情を押さえ、繰り返し繰り返し考えてみる。 琉球・沖縄に対して大きな距離感を抱く人が東京にいるのだ。不安が風評を生み、それがまた不安を拡大する悪循環--大和人の心に潜むものが、うっすらと透けて見えてくるではないか…二十七度線という言葉が甦(よみがえ)る… 後日、旅行担当の教師から聞いた話、ある保護者からは電話で「子を持つ母親の気持ちがY先生には分からないでしょう」と激しく迫られ答えに窮したとのこと!--アギジャビヨー!--忘れてはいけない!「本土並」のはずが「75%」!基地被害の止まぬ沖縄!どれだけの母が父が、危険にさらされ続ける島の子供達の境遇に涙してきたか!---- 「修学旅行」とは大和による、偽善的な、御都合主義きわまりない沖縄利用法に過ぎなかったのか。その挙げ句、「中止続出」が島経済への大打撃となって琉球・沖縄を襲っている。流行の「大和から沖縄への修学旅行」の正体はこんなものだったのだ! 同化と差別、同化と差別、同化と差別……その大和の背後に同盟国US--私の心は静まらない-- 二週間後、JASの誕生日特別割引を利用して(往復二万円ですでに押さえてあった)一泊二日の旅、「嘉手苅林昌三回忌追悼公演」を聴きにコザに行った。荒だつ気持ちを引きずったままで。 唐(とー)ぬ世(ゆー)から大和(やまとぅー)ぬ世、大和ぬ世からアメリカ世 ひるまさ変わたる くぬ沖縄(うちなー) 「時代の流れ」で開幕。二千人近く入ろうかという沖縄市民会館大ホールは満席、立ち見も出ていた。 高嶺剛の映像も紹介された。「もしもしちょいと林昌さん、わたしゃアナタにホーレン草」の一部。「オトー」の一挙手一投足に会場から笑いが漏れる。 あたら我が沖縄(うちなー) 品物ぬ例(たとぅ)い 取(とぅ)たい取らったい 上(かみ)にまかち 下(しむ)むあてぃ上(うぃー)や 役立ちゅるむい 下む無(ねー)ん上ぬ 何(ぬー)役立ちゅが (何と言うことか我が沖縄、まるで品物のように、取ったり取られたり上の勝手にされて。下があってこそ上が役立つものだ下が無い上は何の役に立つか) 林昌の母親うしの作った歌である。彼はナークニーにのせてこれを唄う。林昌という子を持った母はどんな気持ちで親としてこの世を生きたのであろうか。 舞台上に誠仁、美佐子、愛子、とみ子、定男、幸一、哲弘、見慣れた顔がある。会場出口でやはり追悼公演を聴きに来ていた佐喜眞(さきま)道夫一家に会う。明日美術館で会いましょうね。夜は例によって、民謡酒場めぐりとなりまして、娘の学校他、情けない(全く情けが欠けている!)大和人に痛めつけられているかも知れない琉球・沖縄を励ますつもりが、あいかわらず元気な沖縄人の皆さんに大いに励まされてしまった旅となりました。重ね重ね有難う。 |
(文中敬称略) |
【参考】 嘉手苅林昌 唄と語り (高嶺剛 監督) (もしもしちょいと林昌さんわたしゃアナタにホーレン草) ビデオ ビィーライン 「…三味とともに…」嘉手苅林昌追悼公演パンフレット (2001 11 04) |
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