■ 死者を訪ね、あゆ む(その1)
   ------59 年後の5月、伊原いばるの第三外科壕へ------

ぼくの好きなうた 75 


 この春に私の感じた二つの不快から、書き始めます。

1 合衆国の横暴に反対する勢力が、日本国籍の数人を「人質」にした。その報道に触れ、「人質」とされた人々のこれまでの活動の断片を知ったとき、私の中に大いなる不快感が生じた……せん。よりによって、国家を超えて動く人間を標的にするとは。その人間の姿を見ずに所属する国籍だけをもって利用しようとする着想が許せない。

2 誰が言い始めたのか「自己責任」という言葉は不快だ。「責任」で十分だ。ことさら「自己」を付けることにこそ日本国の意図がある。国家の枠組みを超えて動いている人々の持っている「責任」の感覚を私達は考えるときだ。国家を信奉する者達はそういう人の「責任」の意味の重みに想像が及ばないのだろうなぁ。ああ情けない。

 おおざっぱな言い方になるが、人質達は反米戦争の兵士達(とりあえずそう呼んでおく)にねばり強く話していったようだ。自分の思想、知識、歴史へ評価、未来への展望など。その行為が一種の連帯意識を生んだと私は見ている。その過程で、思いは国籍など易々やすやすと超えていく。それが嬉しい。

 さて、本題です。こちらも嬉しい話。

 アユミさん(仮名)は今年(2004 年)の元日に【たまたま庵】にやって来た。小学五年生。知人が西表いるむてぃ島で知り合って仲良しになり、ここを紹介したというわけ。八重山やいまを中心にすでに何回か琉球を訪れているとのこと。

 アユミさんは、以前「ひめゆり平和祈念資料館」を見学した際に強く印象に残った島袋ノブさんの遺影が気になって、今回は沖縄島の南部を歩きたいという。私はその朝(=元旦)に、アブチラガマ(陸軍病院糸数分室)で九死に一生を得た元皇軍兵士の日比野勝廣さんにお目にかかったばかりだったこともあって、翌二日は彼の辿たどった経路から案内を始めることになった。

 嘉数かかず(宜野湾市)に今も残るトーチカを見学(この激戦地で日比野さんは負傷)。次に数キロ南の陸軍病院壕(南風原はえばる黄金森くがにむい、日比野氏が運ばれた所)跡へ。「20 号壕」(現在、公開に向けて整備中)の入口に登ると「24 号壕」方向の草が刈ってあるのに気づいた。歩けそうだ、とワクワクしながら人の踏み跡を辿る。「飯上げ」(軍の用語、食事の運搬)のみちだ。小さな峠を越え「悲風の丘」の碑の近くを過ぎ県道をくぐり炊事場のあった所まで歩いて約二十分。めぐり合わせが幸運だった。測量か何かで草を刈った直後だった ようだ。59 年前に学徒が命がけで通った径を私達は歩いたのだ。

 アユミさんは翌日大和やまとぅに帰ったのだが、私はその機会に「公式ガイドブック」(ひめゆり平和祈念資料館の図録)を再読してみた。

 すると島袋ノブさんの負傷から死に至る証言が掲載されているではないか。

「第三外科 最初の犠牲者」 宮良ルリ(旧・守下ルリ)
      当時18歳 師範本科1年 第三外科勤務

 南風原の第三外科壕は南風原国民学校の道を隔てた向かいにあり、勤務者の壕が一本、患者壕が六本でした。
(以下要点のみを記す)
 軍医は2 名、看護婦は30 名前後。生徒は15 名で引率の教師が一人。患者壕は奥行き20m、一本の壕に60 〜 80 名の患者でぎっしり。勤務者壕から患者壕まで距離があり非常に危険だったので、勤務の交代は砲撃が止む夕食時間の頃に行った。
 5月11日は弾が激しく飛び交う日。軍医は「今出るのは危険」と言ったが、先生は「患者壕の生徒達は徹夜の看護で疲れている」と答え、生徒5名を連れて出た。
 丘を越え後わずか10m ぐらいという所で迫撃砲の集中攻撃に会う。「やられた!お腹やられた!」と言う島袋ノブさんの叫び声。弾は背中から尻に貫通。尻はパッと裂け脊髄がグチャグチャ。腸が飛び出していた。
 腹をやられて助かる患者はいないのを見てきたノブさんは「私はもう死ぬんだ。私にこんな注射を打っても駄目、兵隊さんに打って頂戴ちょうだい」。カンフルやブドウ糖などの注射が続けられ縫合ほうごうも続行。「水が欲しい」と言うので軍医に判断を仰ぐと、もう見込みが無いと思ったのだろう「いい」と言うので飲ませた。「少し寝かせてちょうだいね」と言い、皆の見守る中で静かに息を引き取った。

 宮良ルリさんとは何回もお目にかかっている。クイパラ通信にも書いたが、14 年前、初めて三線を買いに行った冬に縁があって知花昌一さんやルリさんに出会ったのだった。---- 【出会いの頃】をごらんください←クリック!

 アユミさんとノブさんを繋ぐのも私の仕事、と気づいた私はその後「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」(単行本には巻末に死者の一覧表がある)や「墓碑銘ぼひめい」(ひめゆり同窓会編、生前の人となりを紹介した文集)などを調べていった。生きている私たちの想像を一人の死者に近づけていく作業だ。感情に流されることなく、しかしおのが感情を解放しつつ戦争の像を丁寧に再構築していくのだ。

 大型連休を利用して、アユミさんは再び【たまたま庵】にやって来た。今回は宮良ルリさんと会うために。


 ルリさんはひめゆり平和祈念資料館で証言員を務めている。開館15 周年を迎えるこの4月に資料館は全面改装した。新規開館初日に私も新しい展示を見学したが、工夫が凝らされていて旧展示よりさらに充実した資料館になった。文字や写真や図の展示もさることながら是非見ていただきたいのは証言映像だ。大画面に登場する証言者は、はじめに学生当時の写真で紹介される。遺影で並ぶ同級生と同じ若い頃の姿である。八重山から那覇にやって来た師範学校の生徒、守下ルリの愛らしい顔もその画面に登場する。

 ちょっと話がれた。5月2日の午後のことに戻します。

 連休、好天、新装、ということで資料館はあふれんばかりの人、人、人。証言員ルリさんの周囲にも50 人近くの人の輪が出来ていたが、アユミさんはその端で真剣に耳を傾ける。ノブさんの話になるとアユミさんは微動だにしない。ルリさんが語り終え、周りの人が次の展示に動いていった後、私は歩み寄り挨拶しアユミさんを紹介する。涙で声の出ないアユミさんの様子を見てルリさんは微笑んで話しかける。
「あなたのように若い人達がこれからの世界を作るのですから、その気持ちを大事にしてくださいね。今日は会いに来てくれて本当に嬉しい。ありがとう」
人間の思いがしっかりとつなぎ合う場面に立ち会い、私も喜びの涙を止められなかった。

 冷静になって再び展示を見渡せば、国家主義の醜態しゅうたいが良く見える。師範学校や第一高等女学校は、琉球処分以後の大和やまとぅの同化政策の最前線。「ひめゆりの悲劇」の背景にアジア侵略の事実が明白だ。国家主義の歴史を超えて、私達は資料館の中に立つことができる。そして私達の想像力は未来を展望するー死者と共に。

 くにたみとぅうむてぃ  ささたるぐゎ  なま島尻しまじり  果てはてぃ碑文ひぶみ 
        (ある親の詠んだ歌)



【参考】
クイパラ通信 第84号
*『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』 仲宗根 政善 角川書店


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