■第32軍補充兵イサヲの陰に涙あり(イサヲの旅立・その2)


ぼくの好きなうた(連載第12回)    ラフティ いさを

<前号のあらすじ>

 1944年冬。浜松にすむヒサヱ(17歳)は微熱でまどろんでいた。中部129連隊から、久しぶりに外出してきた兄イサヲ(22歳)は沖縄行きの命令を受けていたが、多くは語らず、ラバウル小唄の替え歌を繰り返し唄って聞かせるだけだった。
 「さらばひーちゃんよ、また来るまではしばし別れの涙が滲む」
 数日後、息子の指定した時刻に指定した場所に行った父親が見たものはしっかりとカーテンを下ろして西に疾走する軍用の列車であった。沖縄へ向かっていたのは大和の兵隊だけではなかった。連合軍の18万余の兵士もウルシー環礁経由で沖縄へ向かう。45年の春が近づいていた。・・・・・・
 


     右端がヒサヱ 浜松にて '30年代か


 3月10日午前0時。マリアナ諸島(サイパン)から飛び立ったB29約130機が低空飛行で東京に襲いかかる。以前は高度10kmから落としていた爆弾を平均2500m程度の低高度から大量にばらまく。二日後には名古屋をそのまた二日後には大阪を焼き払っていく、その頃。
 沖縄では第三次の防衛召集が行われており、17〜45歳の男のほとんどが軍にとられてしまっていた。沖縄守備軍約10万の三分の一はこのようにしてかき集められた現地召集の補助兵力であった。島に残っていた一般人は約50万人、その約一割が慌てて山原への疎開に向かっていた。

 北へ 北へ 進め 裸足で 瓦礫の道を
  (「光」 みやぎよしみつ)


 来るべき沖縄戦に向けて、浜松から鹿児島に到着していた第32軍航空情報隊の補充兵約600人のその後は、というと。
 
 3月12日海軍の通信情報
--マリアナ・ウルシー方面ヲ中心トシ再ビ敵戦略動向活発化シアリテ該方面ヨリスル敵次期作戦ニ対シ厳戒ノ要アリ--
 
 3月13日夜10時。4隻の輸送船(千〜3千トン)は5隻の護衛艦(300トン程)に伴われて鹿児島港を出港。疾うの昔に制海権・制空権は失っているのだが、この船団、記録によれば奄美大島南端の古仁屋に15日朝の8時に到着。34時間という所要時間は、まずまず順調な航行だったと見てよさそうだ。

 その15日の海軍通信情報
--南及西哨戒線付近、潜水艦多数配備サレ機動部隊出撃直前ノ状況ヲ示セリ--

 奄美の春は早い。草木の緑は濃く、赤花の咲く古仁屋は南向きの港である。すぐ前にある加計呂麻島との間の入り組んだ深い水道はさながら天然の軍事要塞、そこには重砲隊、海軍航空隊も配備されている。戦局の煮詰まったこの時期にも停泊していた艦船は少なくなかったろう。
 ラフティが先般古仁屋の図書館で見つけた本によると、同じ3月15日に海上挺身第29戦隊88名は沖縄への航行が不能と判断して古仁屋港から近くの阿鉄に移動。出撃準備を続けていたものの、そうこうするうちに沖縄戦が始まってしまい、あれよあれよ、移動できぬまま結局そこで8・15を迎え11月に全員が復員している。あぁ、ここにも運命の分かれ道があったわけだ。

 で話は戻って当の船団、3月16日夜10時ころ、星空の下、蛙鳴き交わす古仁屋を出港。航路の状況は極度に悪化していた。二日かかってやっと徳之島西方60kmの硫黄鳥島付近までたどり着く。
 3月18日昼過ぎ。米軍偵察機一機が船団位置を捕捉した。いよいよイサヲは敵と遭遇したのである。思い起こせば学舎を後にして一年あまりが経っている。まもなく弾丸の飛び交うであろう荘河丸の上に、今は陸軍伍長になっている自分がいる。弾の飛ぶ場所から身を避けるべく始終逃げ回ってきたあげくが、これか。ましてや自分より年若い部下も連れている立場だ。どうする、どうする、いやなるようになる…しかない、自分に言い聞かせるイサヲであった。
 全艦戦闘態勢で臨んでいた輸送船団だが、左後方2000mに潜水艦からの魚雷発射を認めた。開城丸は瞬時に舵を取って避けたが第三筑紫丸はもろに一撃を受けた。日も傾き始めた午後の5時のことだ。船体は真っ二つになって沈む。海が渦を巻いて鉄を、人間を飲み込む。一隻を失った船団は慌てて泗礁山錨地(上海のすぐ近く、誰か読み方と場所を教えて下さい)に向け移動を開始。そして不気味に静かな夜が来た。臨戦態勢は続く。
 同じ3月18日、本土方面では米空母15隻と米艦載機延べ940機による「九州沖航空戦」、翌19日には延べ1000機による呉・阪神・北九州の空襲が行われていた。

 3月20日正午から泗礁山錨地で避難していた8隻は22日午後5時再び那覇に向けて航行を始めた。そこに留まるのも危険、奄美に戻るのも危険、という最悪の状況だったのであろう。予定ではとっくに首里の第32軍に合流していたはずの時期だ。
 が、翌23日。南西諸島周辺には米軍機延べ282機が出撃。沖縄本島南方近海にはウルシー環礁から発進した空母9、戦艦10、巡洋艦10、駆逐艦・掃海艇等50隻が配備されていたのだった。

 青い 神の島は 黒い 鉄の 遠い国の船で うめつくされ
  (「光」 みやぎよしみつ)


 さてと、ここで一息。戦争の実相からちょいと目を転じます。

「軍歌・戦時歌謡」はJの37チャンネル。

  エンヂンの音 轟々と
  隼は征く 雲の果て
  翼に輝く 日の丸と
  胸に描きし 若鷲の
  印は 我らが戦闘機

「加藤隼戦闘隊」です。明るく伸びやかなメロディーがぼくは大好きでした。小学校3年の頃(1966年頃)か、父親が借りてきた軍歌のLPレコードの中でもお気に入りだった曲の一つ。ただし、そう、ただし気にかかったのは途中短調に転調し、テンポも落ちる部分の歌詞なのです。

  干戈交ゆる 幾星霜
  七度重なる 感状の
  いさをの陰に 涙あり
  ああ今は亡き 武者の
  笑って散った その心 
  (加藤部隊歌-隼戦斗隊 作詞 田中林平)

 「イサヲノカゲニナミダアリ」ぼくは泣き虫って事?若き日のラフティは一寸嫌な感じだった。はっきり言ってこの短調の部分の歌詞のうち、七五調で一行全部の語が分かったのはこの「イサオノカゲニナミダアリ」だけ。次に何となく分かったのは「ワラッテチッタソノココロ」。
 う〜む、泣きなさい・笑いなさい、か? 
 それなら、いつの日かいつの日か花は咲くんじゃないのかな??

 というところで今回も思わせぶりで、終わりです。注目の南西諸島は荘河丸艦上のイサヲ伍長の45年3月24日は次回。ではまた。


【お知らせ】
 「平和の礎」の全てを写真撮影し出版した「写真記録平和の礎(日本・米国・台湾・朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国)沖縄全戦没者刻銘碑」(95年那覇出版社・約4kg)を私自宅に持っております。沖縄戦戦没者(とおぼしき方)の氏名と本籍地(沖縄県以外の場合は都道府県まで)をお知らせ下されば刻銘の有無を確かめられます。ラフティまでご連絡を。


 
参考資料
 月の空 水の大地(CD PAR60001 96年COMPOZILA 寿)
 軍歌大全集(CD VICL-5306 95年 ビクターエンタテインメント)
 ドキュメント昭和史5敗戦前夜(今井清一編 75年平凡社)
 改訂版沖縄戦(大城将保 88年 高文研)
 戦史叢書沖縄方面海軍作戦(東雲新聞社)
 沖縄作戦の統帥(大田嘉弘 84年相模書房)
 第13機海軍飛行専修学生誌(93年)
 戦時船舶史(駒宮真七郎 91年)
 戦時輸送船団史(駒宮真七郎 87年)
 大東亜戦争徴傭船舶事故報告綴  
 太平洋戦争沈没艦船大鑑 
 大島海峡周辺における軍事施設及び装備概況(屋崎一編 95年)
 幾山河を踏み越えて(三角光雄 86年)
 海鳴りの底から(戦時遭難船舶遺族会連合会 87年)



ルビ
滲む       にじ(む)
山原       やんばる 
瓦礫       がれき
疾う と(う)
古仁屋      こにや
加計呂麻     かけろま
及        オヨビ
哨戒       ショウカイ
挺身 ていしん
阿鉄       あてつ
荘河丸      そうがまる
伍長       ごちょう
駆逐艦      くちくかん
掃海艇      そうかいてい
開城丸      かいぎまる
舵        かじ
延べ       の(べ)
轟々       ごうごう
隼        はやぶさ
征く       ゆ(く)
翼        よく
若鷲       わかわし
干戈       かんか
幾星霜      いくせいそう
七度       ななたび
感状       かんじょう
武者       もののふ
隼戦斗隊   はやぶさせんとうたい

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