■出会いの頃'98/05 功 | |
クイパラ通信 '98年5月号に掲載された「出会いの頃」と翌年4月の続編をまとめました。 長いので目次を付けます(各節に跳べます、クリックして下さい)。(02/12/20作成)
| |
どうも有り難う。 何としてもこれが初めに言いたかった言葉。 今、僕はいろんな所で演奏したり、聴いたりして楽しんでいるわけだけれど、 そんな風な自分へと導いた様々の巡り合わせにまず感謝である。 そんな巡り合わせの核になることを書きたい。個人的なことばかりだけれど よかったらお付き合い下さい。……… 遙かなクニ遠いシマ僕が初めて沖縄で唄三線を聴いたのは、今から約八年前、すでに三十歳を越えてからだ。もともとこだわりの多い僕だが、琉球は特に自分の中でずっと特別の領域を占めていた。 焦がれて行きたいと思い続けているくせに、どうしても近付けない所、 強く意識しているからなおさらいつまでも未知のままの場所。 三十年間の知識の中で琉球は……小学校で習った日本最西端の島である 鹿児島県与論島の向こう、一都一道二府四十二県以外の土地。 それはあの戦争からアンポとベトナムに連なる基地の島。 星条旗とロックと暴動の町、コザを意識した中学生のころに、屋良首席は県知事になった。 亜熱帯ジャングルには水鶏や山猫が住んでいる。 もうひとつの「日本語」が独特の音階に乗って話されている。 米軍の記録フィルムを流した大橋巨泉の11PM(TVの深夜番組)、 火炎放射で焼かれる砂糖黍畑の向こうの人影をふるえながら見たのもその頃だった。 遥かなクニ遠い南のシマ、そこは「革命の拠点となり得る“日本”の辺境最深部」か。 運命?の与儀公園僕はそれまで神戸より西に行ったことがなかった。仕事の関係で強いられて 沖縄に行くことになってしまった。そして異文化に身をさらし、 ついに第二の故郷と出会う。忘れることのできない 89年師走の下旬。三泊を仕事で駆け回り、夕刻の便で那覇を発つというひとときを僕は 与儀公園で過ごしていた。山之口貘の詩碑をビデオに収めようとしてのことだった。 一歩公園に入ると不思議な弦の音色が流れてきた。見れば大樹の下に奇妙な格好の 老人がベンチに腰かけ三線を奏でている。ビデオの録画スイッチを入れて 僕はその場所に吸い寄せられていった。 (書きながら僕は今、八年ぶりにその8ミリビデオをひっぱり出して再生している。 その沖縄行でむやみに録った五巻の内の最後の場面だ。) 榕樹の下で与儀公園の大樹は間違いなく榕樹。立派だ。辺りには滑り台などの遊具、 トイレ、売店、砂場。公園にいる人は老人から子ども、おじいさんに 抱かれた赤ん坊まで様々。雨の後だったと見えてブランコの下には小さな水溜まり。 三線を引く老人は入れ歯を気にしながらも、宮古根をひとしきり歌い、 そのあと僕の問いに答える「明治35年生まれ、88歳。仕事はな、社会社会奉仕委員長。 元気ですよ。いつ風邪を引いたかわからない。アメリカが支配しておった時代に 隊長にお願いしてバスを五か年で三百台出させた。永久平和の運動もした。」灰色のシルクハットの下の笑顔。青いジャージの上着のファスナーを 首の半ばまで上げている。 「石くびりというのは、昔の細い山道ですよ。今は太い道を作っているけれど 昔は本部の方へ行くのにそれを登っていった、すると見晴らしがいい。 二人で登りたいという恋の唄だよ。」 調弦も勘所も正確ではないけれど、指の動きは間違いがなく力強い。 歌詞もはっきり聞こえてくる。 そのうちに、彼を含めて男性ばかり三人だった所に女性もやって来て いつの間にか七、八人になっている。 「いつも仕事が終わって集まりますよ。九時半ごろまでいますよ。」 その女性が煙草を一服して、数曲聴かせてくれる。するとさっきの おじいさんが負けじと唐船どーいを始めた。ビデオに気づいた三人の少女が 後ろの鉄棒で愛嬌を振りまいている。そっぽを向いた青年は座って組んでいる 足首を揺らしてリズムをとっている。すべてが公園のしっとりとした砂地の上、 広がった榕樹の木の下の空間。 名残惜しくも離陸の時間が迫る。貘の碑 は諦めた。(そう言えば貘は確か03年生まれ、ほとんど同じ年だ。) 飛行機の中で僕は興奮冷めやらず、「ブルーズ」と手帳に大きくメモをしていた。 すぐに年が明けた。正月に八重山から里帰りしていた僕の妻のいとこが、 習い始めたばかりの三線を弾いてくれた。その場で借りてブルーズをセッション。 春にはいきなり石垣島から三線のプレゼントが届く。「ヤマト」の宅急便だったのが面白かった 。 あっという間の一年5月には仕事で3泊、夏には5歳の娘と二人で4泊、沖縄の旅。これは第二回嘉手納包囲行動のあった8月だ。秋に名護出身の知り合いに尋ねて、 「山原船」と新里愛蔵氏と三線愛好会を知る。初めて中野に行った木曜日に仲本光正、 U地哲、M田明美と会った。今から考えると凄い。年末に安里の仲嶺三味線店で 本革の三線を購入。あっと言う間の一年。 何につけ巡り合わせに感謝、この体験の延長に僕の今はある。 個人的思い入ればかりの文章を読んで下さって有り難う、皆さん。 「あっと言う間の一年」の続きはまた今度。 |
■激動の90年代初頭(三線・太鼓との出会いの頃)…90年冬〜92年'99/04 功 |
どうして我が宿命の地、琉球に僕が惹きつけられていったか、と時々に考える。そのたび、琉球の持つ濃密な陽の力に気づかされる。 近代化と日本(帝国)が自分の周りを隙間なく取り囲んでいると認識し、それに怯えている私。その私に向かって、かくも稠密な囲いを易々と越え、確実な力が波動のように及んでくることにしばしば気づくのだ。強くかつ優しい力。風になって波になって、私のところにやってくる。 皆様今回は番外編でございます。一年前(98年5月)に掲載されました「出会いの頃」。その終わりの部分の「あっと言う間の一年(89年冬〜90年冬)」に続けて、ちょうど一年後の今回、続編をまとめますのでどうぞお付き合い下さいね。 1 昌一さんとルリさんに出会ってしまった初めて琉球の地を踏んで(89年12月)から丸一年の間に僕は4回沖縄を訪れた。この四回目の沖縄の旅(90年12月)では、50ccのレンタバイクで北は読谷山、南は喜屋武へ。座喜味城跡から東支那海を眺めた後に、チビチリガマへの道を確かめようと駐車場で地図を見ているときに関西からのある団体の案内をしていた知花昌一に偶然出会い、早速合流、チビチリガマの奥で彼から説明を聞き(彼のチビチリガマでの語りにはこのうえない価値がある。数年前の地人会公演「海の沸点」での津嘉山正種の好演を今又思い出した)、翌日は、南風原の黄金森、かの野戦病院壕跡を宮良ルリさんに案内してもらう事に(ルリさんの語りにも形容の言葉がない。NHK「戦争を知っていますか」を思い出す)。 近代戦に襲われた琉球がどのように蹂躙されたかを再認識させられる。沖縄人の前で言葉を発することがしにくくなる経験。あの冬を忘れられようか。 2 民謡と古本で琉球の時間を感じ始める夜の時間にはコザと那覇で民謡酒場を知り、結局、箱いっぱいの本や雑誌(宜野湾市のロマン書房で購入)とケース入りの三線を抱えて僕は東京に帰ってきた。琉球に流れる時間は日本の時間と質的に違うことを民謡と古本で実感する。とにかく幸運に恵まれた、相当に密度の高い沖縄行であった。 3 三線に魂を売り渡す?この沖縄行で手に入れた、僕にとって二代目の三線は、僕の好みの柔らかな音で糸巻きもしっかりしている。那覇安里の仲嶺三味線店のだ。中野三線愛好会の練習日の木曜と、昼間が使える休日以外はなかなか大きな音を出せるときがない、けれどどうしても一日の終わりである夜に弾きたくなってしまう。行く先は深夜の多摩川の河原、あのころは「かにくばた」や「ゆなんだきかにすざがま」を弾いていた。まだ見ぬ宮古を想像しながら。週に一度の木曜日が来ると携帯用DATを持って山原船の二階へ。愛好会会長、仲本光正の許可を得て長時間録音を。 初めのうちはブチブチ切れた音しか出ていなかった自分の三線が、滑らかになってきて、遂にある晩、僕の三線で仲本会長が「漲水クイチャー」を踊ったときのことは忘れられない。緊張と快感の瞬間だった。 4 ジャズより他にも神は在るかジャズより他に神はなし、と言ったのは確か相倉久人。彼の本を読みジャズに浸った十代から二十代を経て、80年代はブルーズやレゲエを遊んでいた。与儀公園へ行かずにいたら、今頃何をしていたことだろう。(僕と与儀公園については「出会いの頃」クイパラ通信14号--98年5月--参照のこと。闘争の関係ではありません。)楽器のことで言えば小学生時代の弦4本のバイオリン、ウクレレから、中学校で弦6本のギター、高校で4本のベースと流れ流れて、三十代にして遂に三線にたどり着いたわけ。 だからそのころ飲んでは遊んでいた仲間にはジャズ好きが多くて、僕は愛好会とは別に三線をそのまま取り込んでジャズの楽器と趣味的に演奏したりもし始めた。 余計なことかも知れないけど、日本のロック系の人間は琉球の三線を取り込むときギター的なスタイルにしてしまうことが多いように思う。曲を聞けば分かることだが、演奏している姿を一目しただけでも分かる。三線の構え方がギターのようで三線らしくないのだ。 ジャズの連中にはそういう不自然さが少ない。もとよりジャズは、アフリカ起源の民謡が西欧の楽器と出会った、文化のスパークから直接誕生している。 基本的には「あれも良い、これも良い」といった大概さを含んだ音楽だ。反対に言えば力のあるものが音に影響を与えるので異種格闘技の趣もある。厳しくも面白おかしい状況がリングの上に現れる。 加えてスウィングがジャズの神髄だ。たとえば垣花暁子の微妙にうなる三線を想起せよ。あれがスウィングでなくていったいなんだろう。 5 私とTさんとさてここで、学生時分からジャズ愛好家、今は会社員でありながら昼休みと有給休暇に畑を耕し、時には剣道に精進し、演奏するときにはラテンに目がない、長身のドラム叩きTさんのことを書かねばならない。91年冬の沖縄行では彼と二人でコザへ。そして今僕が叩いている太鼓は、そのときに二人で数軒の店を回って吟味を重ねた末に安慶田の照屋三味線太鼓店で買ったものである。彼もこの沖縄行の前後には何回か山原船に来ている。やがて彼は私に言った。 1 三連符のりの曲では均等割りの打ち込みこそがフィルインである。 2 三線はリズム楽器である。 3 冷静に熱くなれればこれで言うことなし。 付 昼寝は大切だが、飲み過ぎに気を付けよ。 以前からベースとドラムというリズム楽器でスイングしてきた二人だから言葉は最小限だ。(コミュニケーションのエネルギーは音や酒を媒介にする方に持っていくのが楽しい。)これらのテーゼは今の私の太鼓の基本理念(ドグマ?)になっている。特に三連符系でない打ち方の多くはTさんからもらったものがほとんどだ。 そのころ彼は琉球民謡の太鼓に打ち込むか、ラテンパーカッションか、子育てか、剣道か、畑か、水泳による身体づくりか、といった迷いを持っていた。 一方僕には三線と太鼓しかなかった。迷いの選択肢の少なかった分僕が前へ出た。それで僕はいつしかTさんより多く太鼓を叩くようになっていた。 6 Tさん名付ける名付けるもう一つ書かなくてはならないことがあるのだ。今ここに明かそう、「クイチャーパラダイス」の名付けに大きくかかわったのが他ならぬこのTさんなのである。彼は、僕と特別同居人(いわゆる配偶者)と愛好会のKさんを組織して、92年5月、多摩川の河原(二子玉川付近)で開かれたある催しに30分の枠を取り、沖縄民謡・宮古民謡を演奏したのである。その時のグループ名が知る人ぞ知る「NOMAパラダイス」(中野沖縄民謡愛好会天国)。主催者に電話連絡したときに彼はとっさにその名で登録していたのだ。このユニットはこの一回きり、その後なんの音沙汰もないのだが、名前の後半の「パラダイス」が同年秋の沖縄公演(ゆんたく会、シーサーズ、愛好会)あたりを生き延び、明けて93年6月の「クイチャーパラダイス旗上げ公演」へと繋がっていくのである。 どうです、この辺り。知っている人はほとんどいないお話です。さて、どんな発想でTさんが「パラダイス」と名付けたか、ということならば、「NOMAパラダイス」とほぼ同時期にやはり一回だけのユニットであった、もう一つの幻のバンド「オルケスタ・れ・ら・留守」の正体について語らざるを得なくなるのだ。 7 「オルケスタ・れ・ら・留守」の正体 【録音あり】←クリック!92年4月28日深夜。私の愛車は四人とキャンプ用品楽器島酒を載せて中央道を下っていった。翌日のある結婚披露パーティーで、それまで温めていた世紀の名作(迷作?)「ドミファのうた」(ジャズブルースラテンミックス版)を、新郎新婦をたたえる祝い唄として演奏するための一日限りのセッションバンドであった。パーティーは本栖湖畔のキャンプ場で盛大に行われると聞いている。当日にはソウル唄いまくりの女性MYさんもメンバーに加わるべく来ることになっている。車が深い霧の中を進むうちに、運転手(私)以外は当然のように一升瓶のふたを開けて始まる始まる。練習が始まったのだ。 ドはドナンのドキャンプ場に着く頃にはみんな絶好調である。いや正確に言えば運転手一名をのぞいては、であるが。いけないいけない飲めなかった怨みが文章を歪め始めた。 本題と余り関係がない話は省略しましょう、それでもわかる人にはわかるでありましょう、というわけで「ドミファのうた」は当然「レ」と「ラ」が留守になりまして、決定!そのバンドの名は「オルケスタ・れ・ら・留守」であります。 その名付けは、記憶がはっきりしないのだが、キーボード兼リコーダーのAさんと私とTさん辺りではなかっただろうか。トランペットのIさんやギターのJさんも名付けに加わっていたかも知れない。とにかくバンドの自己紹介に会場がわいた。 その催しで演奏準備のリーダー格であったのが東京の青梅線方面在住で東京、特に中央線でも活躍するNさん。「K・パラダイス」の人だ(クイチャーのKではありません、念のため)。優しく面倒見がよく演奏も楽しい。それがTさんの魂を揺さぶったのだろう、本栖湖「オルケスタ・れ・ら・留守」のドラマーであった彼が約一月後、多摩川で前記の「NOMAパラダイス」の命名となるわけだ。 蛇足だけれどその多摩川の催しには新里愛蔵さんや後の「キンランドンス」のU野Y子さんも来たんだぞー。 8 とにかく本栖湖には迷音楽家が集まっていたのだ話はもう一度「オルケスタ・れ・ら・留守」本栖湖に戻りまして。このバンド、出番の一曲目は「豊年の歌」。当時の三線愛好会ではとにかくこの歌であった。人の集まりから少し離れたところ、はっきりした輪郭の顔に、二重瞼の奇人S藤Y一が座り込んで林賢の曲を歌っていた、確か「ちゅらぢゅら」。そのころは彼はまだ三線を持っていなくてギター掻きならしうたっていた。舞台での名称は「百姓天国」。この直後に彼は初めての沖縄行、三線購入、愛好会に入り浸り、やがて石川県の「百姓天国」内へ移住、となるのだった。 さてさて、このあとのクイパラ前史はまた機会を改めて。皆さん今回はこれまで。ごきげんよろしゅう。またやあ。 |