固き土を破りて11月26日('95年)、デモで歌った。銀座を行く日曜日の人の流れは間違いなく僕達の声に注意を向けていた。デモで歌うのは久しぶりだし、こんなのは初めてだ……
思いや行動に加速度がつくことがある。
日比谷野外音楽堂を出発したデモの先頭は県人会の人たちだった。自分が入るべきところが見つからず、ぼやぼやしているうちにしかたなく後ろのほうの集団と集団の合間に滑り込む。歩きだした直後に、草ちゃんがワゴン車から顔を出して「よう、森の熊さん、ハンドマイクあるよ」なんてことを言う。そいつぁとてもありがてぇ。電池で働くワイヤレス。
アキちゃん
三絃
取りだして、オシシは太鼓を借りてくる。 果たして僕は今日のデモであの歌を歌うことができるのだろうか……
『沖縄を返せ』はどこがで聞いたことがあるという程度の歌だった。'72年は中学3年。東京の郊外で育ち、RCサクセションやCSN&Yを聞き歌っていたその頃の、「あさま山荘」には強烈な印象が残っているのに比べて、5・15の印象は薄い。
俄楽隊四人衆の前には数十人の集団がいた。エイサーの衣装とパーランクの子どもたちに大人が続いている。見たところ県人でもなく、党派でもないようす。この数年、運動会などでエイサーをやる小学校が東京近辺には多いらしいから、そんな集団なのかもしれない。不思議なことには伴奏者もおらず、テープの準備もないらしい。
数年前、初めて『パラダイスビュー』(高嶺剛、85年)をテレビで見たのだが、その中に『沖縄を返せ』を三絃で歌うシーンがあった。決して琉球的ではない歌だが、その場面はいかにも琉球的だ。映画の中で歌った人物が大工哲弘であることを、しばらく僕は気づかずにいた。 『ウチナージンタ』が発売となったとき、たまたま我が娘(小学生)と、新宿の丸井の地下のレコード屋で試聴できるのを見つけて、『沖縄を返せ』ばかり10回も20回も聞いてその場で覚えたのだが、そのときには感じなかった違和感がそこにあった。『ウチナージンタ』を誰よりも先に買って、この歌に感激していたオシシの手紙や電話にも全然感じられなかった違和感。
「『沖縄を返せ』歌えるんでしょう、やって」と20代のアキちゃんは何度目かの「唐船どーい」を歌い終えて、僕に言う。 アキちゃんは、ビデオはあるがテレビはないという一風変わった生活を送っている。だから11月10日の「ニュース23」(TBS)で大工さんの歌った『沖縄へ返せ』は噂でしか知らないのだろう。その約一週間前の11月4日、「八重山島唄競奏95」(東京)で彼が鉢巻して歌た沖縄を返せ』に痛く感激したに違いない。それが忘れられず、以前僕が半分遊ぴで『沖縄を返せ』を弾いて歌ったのを聞いたことがあって、今日このデモではぜひ、三絃の伴奏にのせて自分も、いや自分が歌いたいということのようだ。 大工哲弘はすばらしい。八重山に限らぬことだが琉球には日本と違った時間が流れていて、昔の歌も決して古びず、いくら時を経ていても今ここで歌われる歌は今を生きる歌なのである。また隣国ヤマトの歌も自分たちの歌として歌い継いで来た。それこそ歌というものの本来の姿である。大工哲弘はそれをきっちりと見せてくれる。沖縄音楽がただ目新しいものとして通り過ぎた後の日本各地で、歌う者の姿勢をまっすぐに主張してライブを重ね、CDも作ってきた。当然のこととして、八重山化したヤマトの歌も歌い続けている。この大工さん歌う者としの姿勢の中にこそ『沖縄を返せ』を歌う一つの必然があると言えるのだ。
沖縄戦集結50年の今年、過去を振り返り未来を展望するものとして多くの記の行事が行われたが、その一つに「サンシン3000」があった。50年目の〃熱い〃春から夏に大工さんは三絃の指導者として沖縄をかけ回った。8月26日当日は大成功であった。 宜野湾海浜公園に8万5千人が集まった10・21集会で、仲村清子(普天間高校)は高校生代表あいさつをこう締めくくった。 私は戦争が嫌いです。 これに涙した人々が多かったと間く。あの70年前後を闘った人達である。そして結果的には「核抜き、本土並み」という為政者の言葉に欺かれた人々である。ほとんど敗北の総括をし切れずにこの四半世紀を生きて来た人々である。大工さんがこれにどう感じたのか直接には知らないが、仲村清子さんの「あいさつ」に象徴される御万人の思いが、大工さんに鉢巻きをさせ、『沖縄を返せ』を歌わせる力になった。これが11・4の、もう一つの必然だ。 我らは叫ぶ沖縄よ--私たちの世代は叫ぶ…沖縄(の人々)よ 新橋のガードが彼方に見えてくる。その先の数寄屋橋交差点には日曜の午後の群衆が信号待ちをしているだろう。思いながら、僕はまだ歌詞を考えている。今僕はこの歌をどう歌い始めれぱいいのだろう。
11・4の『沖縄を返せ』を僕は聞いていない。職場の代休で休日だったが、それこそ前日の仕事疲れでごろごろした後、日暮時に娘と武蔵野公園(小金井)の原っぱ祭りへでかけて、月の上がってくる空を眺めながら、寿の演奏を聞いていた。宮城ヨシミツさんの書く詞はいいなあ、真直ぐに沁みてくるなあ。 さあ、みんな私のもとから奪ってしまえ気になっていた『沖縄を返せ』の歴史を、僕はTBS「ニュース23」(11・10)の中で知った。後日沖縄タイムスに、番組担当の金平茂紀氏が書いた「大工哲弘が歌う、1995年の”沖縄を返せ”(12・4、5)」も大いに勉強になった。それをもとに、時代を追って『沖縄を返せ』の歩んだ道をたどってみよう。 誕生は56年10月、九州でのこと。三池闘争の頃、沖縄復帰闘争を題材に作られた歌で、初めはもの悲しい短調の曲だったのを歌声連動の大御所、荒木栄が曲を変えて勇ましいものにしたという。この誕生に僕はある種の象徴的なものを感じる。外から沖縄を見た者(当時の九州の活動家にそれを責めても詮無いが)の同情が短調の曲想になって現れたが、その後運動のために勇壮な曲調に作り直された。いわゆる労働歌の持つ、国際主義とでもいうのか、世界の帝国主義者と闘う労働者人民のしいたげられた苦しみをバネにしたたゆまぬ連帯、というような力強さが求められたのだ。
とにもかくにも、この歌は誕生した時から紛れもなくヤマトの歌だったのだ。それが50年代〜70年代の闘争の中で琉球とヤマトを結ぶ連帯の歌とされ、成熟して行った。 固き土地を破りて固いのだ。合衆国をここで米帝と呼ぼう。米帝は、日本の武装解除後の対アジア戦略をこう立てた。日本に軍備を残さない、完全に日本軍を解体する。これはソビェトの介入を極力押さえた上で進める。一方、そのソ連と対抗しつつ東アジアを己の勢力下におさめるための軍事施設の中心は、太平洋の要衝=沖縄に置く。< br> かくして沖縄は「固き土地」となる。米帝の軍事の要、固くないはずがない。いやもっと直接的には、銃剣とブルドーザーで奪った土地は米軍が文字通り固く固めてしまった、と取ってもいいだろう。 民族の怒りに燃ゆる島 沖縄よ不沈母艦沖縄を切り離さずには、日本の平和憲法はあり得なかった。新憲法が基本的人権を謳った時、琉球人は異民族アメリカーに蹂躙されていた。憲法が健康で文化的な健康な最低限度の生活と言った時、人々は土地を追われ、食料さえ手に入らず、暴行におびえていた。憲法が、国際社会の中で名誉ある地位を占めたいと思ふ、と言った時、かつての万国の津梁=琉球は米帝の軍事基地という以外に国際的な意味はほとんどゼロであった。 誤解しないでいただきたい。当時の日本に軍事基地がなかったわけではない、蹂躙されない人権が確立していたのではない、健康の保障もなく、国際的な地位も低かった。だがしかし、沖縄を米帝に渡すことで憲法を手に入れることができたのだ、日本は。 そこで、民族の怒りだ。目本民族として沖縄県人(?)は怒る。日本民族としての連帯で本土人(?)も怒る。この一つの民族の怒りに島は燃える。反米愛国の炎に燃えるのだ。米帝は意図的に「琉球」「琉球人」と呼ぶ。日本民族とは独立した歴史を持つ琉球民族だと宣伝する。一層これが反米愛国民族主義者を刺激した。「沖縄は日本だ」「愛国的な人民の連帯を」。 我らと我らの祖先が 血と汗をもて守り育てた沖縄よウチナンチュとウチナンチュの祖先は琉球でたくさんの汗を流したであろう。それは僕にとっては豊かさのイメージだ。今年、2回目が開かれた「世界のウチナンチュ大会」を見ても、ウチナンチュの汗の尊さが感じられる。汗は世界各地で琉球文化を守り育てて来たと言っていい。 ウチナンチュの流した血は負のイメージだ。史実としての記憶の範囲では、薩摩との闘いで、つまり日本との闘いで流された血があるだろう。そして沖縄戦で米帝と日帝によって流されたおびただしい血があった。加えて、琉球の支配者たる王のために流されたさまざまな時代の人民の血もあったことだろう。まあ、ほとんどが負のイメージであったにしても、流されてきた血はやはり沖縄を守り育ててきたのだ、と言ってよかろう。 さて、ここで「我ら」とは。「我らの祖先」とは。 反米愛国に燃える日本の、三池闘争に燃える九州の、歌声に未来を展望する人々のうち、だれが、どの人の祖先が、どんな汗を、血を、どこで、どんなふうに流したと言うのか。 階級闘争的な歴史観でいけばこんな答えになるだろう。「常に人民は闘って来たのだ。汗も流せば血も流したのだ。それによって歴史は進んで今に至り、やがてプ□独が勝ち取られるのだ。だから沖縄は人民の固い連帯で奪い返さなくてはならないのだ。我らは叫ぶのだ。沖縄を返せなのだ。」 実は多くの日本人は、その肉親は、皇軍兵士として沖縄で活躍した。自分の汗と血も流したが、その何倍ものウチナンチュの血も流させたのだ。有史以来の日本人は(そんな概念は後々打ち破るつもりだけどあえて今は言わせてもらう)幾人かの例外的な人物を除いて、ほとんどの者が沖縄を守り育てるのに貢献したりはしていない。いやいや、貢献しないどころじゃない。文化を蔑視し破壊したのだ。 我らと我らの祖先が血と汗をもて守り育てた沖縄……おおおお何と能転気な誤解。その恐ろしい誤解の中で、この歌は「沖縄は我らのものだから返せ」と叫んで終わる。 そして70年代がやって来る。遺動はまさに渦巻いていた。「復帰」か「返還」か、それとも「奪還」なのか。はたまた独立か。せめては「核抜き、本土並み」だ。ニクソンよ、佐藤よ、沖縄を返せ。異民族支配から解き放て。一刻も早く日本国憲法下の沖縄を。目本に核はない(だろう)、毒ガスもない(だろう)。せめて「本土並み」にして返せ。 この歌の生命は'72年に成熟の極点を迎え、絶えた。沖縄は返ったのだから。安保の下の日本に。経済成長下の日本に。都市化と公害の日本に。民族も文化も歴史も見失った日本に
かくてその23年後。
「ニュース23」バージョンは『沖縄へ返せ』であった。歌う前の説明で「へ」を強調する大工さんの発音がはっきり[he]であったのがストンと心に残った。 固き土地を破りて--海の彼方、沖縄の米軍基地をイメージしながらほら、ここで躓いてしまう。「民族」と「我ら」の問題だ。まさに歌う主体が問われるのだ 次にウチナンチュを主体とした歌ととらえてみよう。その気になってもう一度。 固き土地を破りて--目の前にある米軍の基地を見つめながら2行目の「民族」だけが引っかかるが、筋は通る。だがもう一度よく見てほしい。筋が通ったのは最終行の「へ」のせいじゃない。その証拠に、この「へ」を「を」に戻したって見事に主体のイメージは変わらないじゃないか。冷静に考えて見れば、「へ」は主体の交代をイメージさせるために、脳味噌にちょいと刺激を与える仕掛けのようなものだ。まあ、それをさりげなくやって見せた大工さんはすごいことをしたと言える。コロンブスの卵だ。一度「へ」で明確にしたイメージは「を」に戻しても失われずに残る。 ここに至って、2行目の「民族」が重要だ。主体たるウチナンチュはここで民族的アイデンティティーを堂々と宣言してよいのだろうか。「民族の怒り」は日本人の外にある、「我らと我らの祖先」は日本の隣の民族の歴史だ。聞いていると、これを歌う大工さんはなぁんとなしに今までより遠くにいる人のように思えてくるのだが、それでいいのか。 僕はいいのだと思っている。歌う時にこそ主体たる者とそうでない者が峻別されてしかるべきだ。そして何を隠そう、一貫して僕は沖縄独立論だ。6年前に初めて沖縄の土を踏んで、不思議な縁の巡り合わせでO城S保さんに出会った時、ビールのみながら(泡盛はすぐには口になじまなかった)、小声で言ったものだ。沖縄の土を踏む前から、沖縄のことを気にかけ続けてきました、いや、気にし続けて来たからこそ、臆病な僕は沖縄へ来づらかったのです。ここは僕の精神にとっての異国です。しかし第二の故郷になるかもしれません。いざとなったら銃を取っても闘います、沖縄を侵すものに対して。一種の義勇兵として。 今にして思えば恥ずかしい限りだが、昔聞きかじったスペイン内戦のことなど意識していたように思う。ビールを飲んでいたその民宿のある海岸のシマ、新原に生まれたTという詩人を私はその時まだ知らなかったが、もし彼に同じことを言ってたら、などと想像したりもしている。 話が脇にそれ過ぎたようだ。もとに戻す。歌の主体の入れ替え、これが大工さんが僕達に見せてくれたことだ。この11・10ニュース23バージョンについての金平氏の文章を一部引用する。 「沖縄返還」と「本土復帰」の二つの言葉の問には、いまだに「精神の27度線」とでもいうべき「非連続線」がある。村山政府と大田県政の「擦れ違い」はこの事惰を体現しているかのようだ。 僕に言わせれば、大工さんはこの歌を背負って27度線を南に飛び越えたのではない。もともと南にいて北の歌を違和感を持ちながら(連帯を求め合い)歌い始めたのだ。それをこの11・10に見事に南の歌にしてしまった。新たに生じた一点の不透明な部分を残したまま。そう「民族」である。かつて九州の労働者がうたった「民族」をまだ彼は明確に定義し直してはいない。その不透明な「民族」を抱えたまま、大工さんはひょいと27度線を越えて北に訪れ、この歌を歌ったのだった。今度大工さんに会ったら、こ。一の「民族」を問うてみよう。 新橋のガードが近づいた。僕ばおもむろに歌いだす。 固き土地を破りて
2行目はこれで何とか乗り切ったが、ウチナンチュでない僕は3〜5行目で演技が必要だ。苦しい、しかし時間切れだ。
わしたショップ(県産品販売)を右に見て、東京駅が近づけば、そろそろ解散地点だ。アキちゃんは「弥勒節」を歌い始めた。 【付け足し】 |