■神、死を知りて人となる

                

           ぼくの好きなうた(連載第46回)  らふて いさを                   




 神様−−といっても御存じのように、色々な神々が居られるのですが、今回は大変に身近で、いやいや身近どころか皆さん全員例外無く御自分がかつてはその神で在らせられたところの神様に人が語りかける唄を楽しみましょう。
 まずは視聴率20%を超えた例のドラマを思い出して下さいな(クイパラでの視聴率は多分50%超えているのでは)。

「あ」
「あぁ・・・お疲れ、今帰り?」
「うん。・・・仮眠しなくて良いの?」
「何か眠れなくてサ」
・・・
見詰め合う二人
「じゃあね、お疲れさまでした。」


(前奏無しに古謝美佐子くじゃみさこの歌声から音楽が入る。以下しばらく科白せりふも効果音も無し)

てぃんからの恵みぐ(一人立ち去る遥)
受きて此ぬ世界しけー
(目に不安のある文也)
まりたる産し子なしぐわ
(首里、眠れない恵尚、勝子)
わー身ぬ守い育すだてぃ
(二人寝返りを打つと目が合ってしまう)
イラヨーヘイ
(勝子反対に寝返りを打つ)
イラヨーホイ
(すると恵文と目が合う)
イラヨー愛かなし思いうみー産子
(微笑む二人、机上にゴーヤーマン)
泣くなヨーや
(オーバーラップする聖母子像)
ヘイヨーヘイヨー
(前景に灯される蝋燭)
太陽でぃーだぬ光受きてぃ
(燭台を運ぶみづえ、一風館サロン)
ゆういりヨーや
(蝋燭の向こうに恵達の横顔、右へパン)
ヘイヨーヘイヨー
(大心、頬杖を突いている)
勝さあてぃ給たぼ
(幸造、みづえ、容子、祥子)

夏の節しち来りば
(真理亜、輝く母子像から目を転じる)
涼風しだかじゆ送うくてぃ
(蝋燭の向こうの母子像にズームアップ)
冬の節来りば
(寝床の恵理、一也の寝顔を見ている。)
ふちゅくるに抱ちょてぃ
(小浜の部屋だった、寝返りを打つハナ)
イラヨーヘイ
(ハナの見つめる背中は恵理、右へパン)
イラヨーホイ
(恵理の見つめる先には和也の寝顔)
イラヨー愛し思い産子
(二人を捉えてカメラ止まる)
泣くなヨーや
(二人波打ち際、翌日になっている)
ヘイヨーヘイヨー
(逆光の中、恵理が貝殻を洗う)
ちちの光受きて
(順光、恵理が貝殻を和也に渡す、微笑み)
ゆういりヨーや
(向こうに日傘を差して座っているハナ)
ヘイヨーヘイヨー
(二人を見守り微笑む)
大人うふっちゅーなてぃ給り
(駆け出す和也、静子がやってきたのだ)

雨風あみかじの吹ちん
(和也を抱く静子、立ち上がるハナ)
渡る此ぬ浮世うちゆ
(驚く恵理に静子「えへへ、来ちゃった」)
かじかたかなとてぃ
(微笑むハナ、静子、恵理も微かな笑い)
産子花咲かさ
(しかし恵理たまらず涙なーだくるくるする)

--------
「ちゅらさん明日もお楽しみに」アーマンが歩いていく


 第148回(25週)のエンディングである。真理亜が蝋燭ろうそくを挟はさんでマリアと左右に並ぶユーモアが好きだ。(ついでに言うとこの唄の作曲・編曲・演奏は他ならぬカズヤ君なのですよ!)
----小浜の場面でいっつも満月なのは変、とか、一風館の風呂やトイレやゴミ出しはどうなっているのか、とかそういうことも大いに書きたいところだけれど、今は大目に見るとして、話を進めましょう。----

 いかにもNHKらしく「結婚」というおめでた続き、しかもことごとく女性の方が姓を変えていくのには閉口していたが、この回の真理亜とマリアの画面を見て、ほっとした。作者はさりげなく一人だけ結婚から自由な精神を確保していて、しかも彼女も「母なるもの」に成りうることを暗示してくれた。嬉しい。
 おさらい----真理亜という名を選択したのは本人だ。彼女は「独身主義者」で、しかも、マリアなのだ。
 この機会だから、善人ぽい人々ばかりが登場するこのドラマの中で、城ノ内真理亜の持つ特殊性を気が付くままに並べてみよう。
・黒い服ばかり着ている(夏の小浜でも!)
・キジムナーを見る力を持っている
・恵理の名を呼べない(最後の方で呼んでしまうが)
・本名と過去を隠している(虫垂炎になったとき明らかになるが)
・物書きである
   やはり相当な人物だ。主人公に対抗すべく、作者は相当のパワーを彼女に与えている。
 和也という兄を亡くしていることが文也(と恵理)の生命力の供給源であるが、かたや真理亜は病死した妹の魂を引き継いでいる。
 ------私は今、命を継いで生きているのに、その人は私の目の前で命を失ってしまう。なぜそれがその人あって私でないのか。何度問うても説明は付かない。------そんなふうにして、私達は命の危うさや理不尽な不公平を知ってしまった。そういう私達は、否応いやおうなく、死する者の命を引き受けて生きていくしかない。
 小浜で和也の死を前にして、このような世界の成り立ちを知ったとき、恵理や文也は「童神わらびがみ」の時代を終えたのだった。「死」というものが、全く未知の悲しみであったことを実感して、童神は人に成る。果てしない悲哀の存在を認識し、震え、怯え、神は人になる。
 真理亜はそんな二人の経験を物語として書きうる資格を持っていた、それは妹という死者の力によって、である。その上、和也の不死の魂=キジムナーとの交信もそろそろ可能になりそうな気配。
 ネ、真理亜の力は相当、でしょう! 皆さん。
 小学生にして「立派なおばあになりたい」と願った恵理よりずっと早く真理亜はおばあに成るのだろうなあ。

 私達は皆、天からの恵みを受けてこの世界に遣わされた神であったのだ。今となっては死に溢れかえるこの浮世を渡っているのだけれど。
 そして、幾つもの死者の魂を引き継いで、今日を、明日を生きていく。
 (身近の人をよく見てみよう。その人の引き継いでいる死者の命を思え!)
 蛇足ながら。
 らふて、童神のころ、自分をチャオチャンと呼んでいた。おそらく、まわりの大人の「イサオ」と言う発音のイが弱く聞こていて、さらにサ行が発音しにくいからなのだろう。一方、真理亜は童神の時代、チャコチャンだったはず。ちょっと親近感!
     ----真理亜の童神時代の名は「久子」です。


【参考】
CD 童神 古謝美佐子
  97年 DM001 DISK MILK
「童神」は 作詞 古謝美佐子 作曲 佐原一哉

   


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