■礎<いしじ> (イサヲの旅立ち・その4=最終回)


ぼくの好きなうた(連載第14回)    ラフティ いさを

<前回までのあらすじ>
 1944年冬。浜松にすむヒサヱ(数え17歳)は微熱でまどろんでいた。中部129連隊から、久しぶりに外出してきた兄イサヲ(22歳)は沖縄行きの命令を受けていたが、多くは語らず、ラバウル小唄の替え歌を繰り返し唄って聞かせるだけだった。
 「さらばひーちゃんよ、また来るまではしばし別れの涙が滲む」
 数日後、イサヲは疾走する軍用列車で鹿児島へ。そして制海権のない海路を沖縄へ向けて輸送船団は進む。何とか無事に奄美大島の古仁屋港まではたどり着いたが、その後は迷走。
 1945年3月23日、米軍は小禄飛行場と那覇港を攻撃。24日沖縄島南部に艦砲。沖縄戦が始まったのだ。連合国軍の18万余の兵士は、沖縄上陸戦の指令を待っていた。

     


   浜名湖 佐久米にて '40年 7月30日 慶応義塾予科1年か 




 戦争を嫌い、なるべくなら弾の飛ばないところにいよう、銃を持たずにいたい、と願って通信兵となったイサヲだったが、今は第32軍航空情報隊の伍長となってついに敵の攻撃を浴びせられることになった。
 1945年3月24日午前8時30分。「カナ304」船団はB24二機と艦載機の攻撃を受け甲板上の警戒隊が応戦する。米軍の波状攻撃は続く。警戒隊以外の人々は船倉内に避難しつつも全面的な戦闘に備える。刻々機数は増える。11時45分、まず関丸が被弾沈没。続いて荘河丸、至近弾による機関故障。辛くも沈没を免れた船に、昼食を終えての攻撃だろうか、15時50分、40機の艦載機が猛攻を加える。
 「軍極秘」の手書きの資料「敵飛ニ依ル被襲撃報告(1945・6・20)」に曰く、

 天候海上模様
  晴天 無風 海上凪
 合戦ノ概況
  三月二十四日一五五○敵小型機約四十機来襲本船備付ノ機銃全能力ヲ発揮セシモ遂ニ被弾沈没ス
 被害ノ概要又ハ戦果
  三月二十四日一五五○被弾沈没
  此ノ際乗組船員船長以下六十二名警戒隊十四名便乗者約二百名戦死セリ
 合戦後ノ処置及行動味方ヘノ警報
  瞬時ニシテ沈没ノタメ連絡トレズ他船端艇ニテ五日間支那大陸ニ向ケ帆走ス
 其ノ他参考トナルベキ事項
  備考 生存者三等甲板員山下秀雄一名ノミナリシヲ以テ本人本報告ヲ作製ス



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 まさに血の海。沈没位置は北緯29度13分、東経124度47分(中国浙江省三門湾東方290km)。
 戦闘は荘河丸沈没後も続いた。17時には120機。この時点で杭州丸も沈没。一部の乗員が他船救命艇に収容されたのみ。17時20分、開城丸は2発の直撃弾で沈没。77名が救命艇に乗る。結局この船団で残ったのは開城丸の2隻の救命艇だけだった模様。が、それにも銃撃が浴びせられた。
 以下はイサヲと同じ部隊(約600名)で移動していたある飛行兵の証言。

「部隊の六百名は船団各船に分乗していた。自分の乗った開城丸には全部で700人が乗船していた。襲撃された時はグラマンがやってきて空が見えなくなった。すぐに上官の命令で船底にいれられた。やがて爆撃で船が沈みだしたので慌てて甲板に出たら甲板にいた兵隊は機銃掃射でやられて皆すでに死んでいた。救命艇は48人乗り。海が荒れて海水が入ってきたが浮きのタンクが付いていたので沈まなかった。漂流中多くが死んでいった。死者は海に流した。アイヌの召集兵3人は寒さにも強かった。正気を失って暴れる上官がいたが、救命艇がひっくり返りそうになったのでとうとう海に投げられた。彼は波間でこちらを向いて手を合わせていたがどうすることもできないまま離れていった。位の高い者ほど年のせいか早く弱っていった。8日の漂流の後、舟山列島付近で支那の漁師に助けられたがその時はアイヌの召集兵3人と129部隊の二人だけになっていた。」

 計算してみると彼が助けられた日は4月1日(四月馬鹿)でその年は復活祭(春分後の満月直後の安息日の日曜日=日曜日に行う基督復活の記念祭)にも当たっていた。ちょうど沖縄島へ米軍が上陸した日である。ある記録によれば、一つの救命艇は二度の暴風雨にあった後、4月4日に長江河口の余山島に漂着、もう一隻は数日間の漂流の後、舟山諸島で9人が救助されたとある。また、数か月後に済州島や鹿児島湾に漂着した死体が数体あったという。特に階級の高い者だけが上質の救命胴衣を付けていたのだ。

 私の書いている文章に登場する死者に、そして、礎に名を刻まれている全ての死者に、あらためて黙祷……。

 開城丸の奇跡の生存者が129部隊の死者約600人分の「死亡現認証明書」を書いたことによって、1947年8月20日イサヲの戦死公報が発される。

静岡県に残っている「死亡現認証明書」
 死歿者 遺品遺骨 ナシ
 死亡区分(二字不明)船モロトモ  
 受傷箇所 不明
 現認理由 莊賀丸二十年三月十一日鹿児島出港同三月二十四日敵の攻撃ニ良リ三時間後撃沈一隻残らず海沈サレマシタ兵隊ハホトンド船モロトモニ沈んでしまいました我々は四十二人乘りのボートに乘り込み一夜明かし夜が明けてたくさんの兵隊が浮かんだりあるいはイカダにつかまったりして居たのですが何分寒さのために死んでしまはれました.【表記は原文のママ。拙いガリ版刷りである。】



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 あぁ…あなたが死んで みんなで泣いた
    春のあの夜 月の光

 あぁ…戦場になった この島にも
    夜の空には 月の光
 
 あぁ…月の光 虫の声
    春の夜も忘れないよ 忘れないよ
        
(「月の夜」ナーグシク ヨシミツ)

 葬儀は公報が届いた夏に行われた。みんなで泣いた。



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 沖縄行きの直前イサヲが泣きついた母親代わりの叔母には、7人の子があったが、そのうちの一人は戦後、学徒兵イサヲが学んだのと同じ大学に在籍することになる。従兄にあたるイサヲの死から12年が経って、彼に子供ができた。男児であった。母親とも相談し名前を決めた。
 戦から逃げようとして逃げ切れなかった愛しい甥の名を、自分の8番目の孫の名として、彼女は呼ぶことになった。

 あぁ…僕が生まれて みんな喜んで
    抱きしめた夜にも 月の光
 あぁ…月の光 虫の声
    春の夜 忘れないよ 忘れないよ
 光の中で みんなみんな笑っているよ
 忘れないで 忘れないで わすれないよ       

  (「月の夜」ナーグシク ヨシミツ)


 さてさて、もう一度時計の針を1945年に戻します。
 首里で補充部隊を待っていた第32軍航空情報隊のその後は、というと。
 四月以降の文字通りの泥沼の戦闘を経て、司令部とともに首里を撤退。5月25日には摩文仁まで移動。6月22日(牛島満司令官、長勇参謀長の自決の日とも言われる。蛇足ながら彼らの名も「平和の礎」にある。)特編歩兵中隊に再編されて敵陣に突入する(当然彼らの名も「礎」にあることだろう)。
 もしも、もしも、イサヲが首里にたどり着いていたとしたら……

 イサヲの戦死の公報には「沖縄」の文字はない。今でこそ「第三二軍」「球部隊」「三月二四日」「東支那海」という文字を見れば沖縄戦の補充兵力として移動中の死亡と明確に判るが、当時の遺族の意識としては、南方へ行く途中に船が沈んだ、くらいの感覚だったろう。
 イサヲをめぐる状況がここまで判ったきっかけは、ほかならぬ「平和の礎」であった。全ての沖縄戦戦没者の名を刻もうという企画で、沖縄県は大和の各都道府県に沖縄戦の戦死者を尋ねた。それに応えて静岡県から彼の名が伝えられ、遺族も知らぬ間に刻銘された。二年後の春、平和記念資料館(県立)の入り口に程近い碑の中に<イサヲ>の名を見つけ、興奮した口調でヒサヱに電話をしたのは40歳近くなった<いさお>であった。

 大型旅客機は易々と鹿児島を、奄美を、東シナ海を越えて飛ぶ時代になっている。
 53回目のイサヲの命日、1998年3月24日、彼岸明けに当たる日の午後、摩文仁の丘に妹はやって来た。冬の夜歌声を残して別れた兄、その宿命の名は「平和の礎」に刻銘されてから3年近くここで妹を待っていたのだ。「礎」に対面して、妹の優しい声は固い石に彫られた文字にしみこんでいく。涙混じりの話は尽きない。
 海からの春の風が丘を渡っている。

 24万の沈黙の名前はこれからもずっとここに立ち続ける。


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【お知らせ】
 「平和の礎」の全てを写真撮影し出版した「写真記録平和の礎(日本・米国・台湾・朝鮮民主主義人民共和国・大韓民国)沖縄全戦没者刻銘碑」(95年那覇出版社・約4kg)を私自宅に持っております。沖縄戦戦没者(とおぼしき方)の氏名と本籍地(沖縄県以外の場合は都道府県まで)をお知らせ下されば刻銘の有無を確かめられます。ラフティまでご連絡を。


 
参考資料
 継いでゆくもの(CD VICG-60130 98年ビクターエンタテインメント 寿)
 月の空 水の大地(CD PAR60001 96年COMPOZILA 寿)
 沖縄作戦の統帥(大田嘉弘 84年相模書房)
 戦時船舶史(駒宮真七郎 91年)
 戦時輸送船団史(駒宮真七郎 87年)
 大東亜戦争徴傭船舶事故報告綴  
 太平洋戦争沈没艦船大鑑 
 海鳴りの底から(戦時遭難船舶遺族会連合会 87年)
 帝国陸軍の最後(伊藤正徳 61年)


ルビ

滲      にじ
古仁屋    こにや
小禄     うるく
那覇     なーふぁ
伍長     ごちょう
船倉     せんそう
被弾沈没   ひだんちんぼつ
荘河丸    そうがまる
辛      から
免      まぬか
依      よ
曰      いわ
凪      なぎ
備付     そなえつけ
及      および
端艇     たんてい
支那     しな
帆走     はんそう
杭州丸    こうしゅうまる
救命艇    きゅうめいてい 
開城丸    かいぎまる
長江     ちょうこう
舟山     しゅうざん
礎      いしじ
賀      ママ
叔母     おば
甥      おい
首里     すい
摩文仁    まぶに
牛島満    うしじまみつる
長勇     ちょういさむ
礎      いしじ
球      たま
礎      いしじ
摩文仁    まぶに


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