最近の文章(らふていさを)【4】



シマを知っているかい、そうあのシマだよ。

                                           【ぼくの好きなうた53】

 

 知ってるかい?
 知ってるかい、ウチナーを。
 知ってるかい、うるま島ともいうあのシマを。
 知ってるかい、琉球島ともいうあのシマを。
 知ってるかい、守礼の邦ともいうあのシマを。
 
 三十周年がやってきた。平気な顔をしてやってきた。その顔の裏側にどんな表情を秘めているのか、知ってるかい?
 と、問われる私。どうも毎年、五月は居心地が悪いのだ。
  
 シマが日本になった五月
   どこ吹く風のぼくは子どもで
 人は悩み戸惑い世界は揺れた
  でも家族の笑顔はいつも変わらない
  (「流り行く白雲の如に」 なーぐしくよしみつ)

 私らふては東村山(東京郊外)に住む中学三年生であった、よしみつは那覇の小学生であった、古波蔵恵理(ちゅらさん主人公)は小浜で生まれた。三十年前。
 その頃私は、「今の大人たちは信じられないとしても、自分たちは信じられる」「どの世代にも、どの土地にも手を繋ぐべき人がいる」「世界は変わらない、社会は変わる」などと考えていた。漠然とだがそんなふうに。
 確かに風は吹いていた。だが、復帰も返還も奪還もあるいは独立もブラウン管の向こう側。数年来の、投げ飛礫、催涙弾、流血、怒号、もブラウン管の向こうだった。公社団地の部屋の小さな受像器の前に座って、社会に渦巻く風を感じよう感じようとしていた。

 その頃、あなたは何をしていましたか……実に様々でありましょう。「大和留学」中の沖縄人、闘争に動員された大和人、などなど。戦時の学徒出陣や姫百合の世代も四五十代、という時代でした。
 そうそう、東京で元気ぱりぱり働いていたお母さん、宮古島で旗振らされていた中学生も目に浮かびます。昨日のことのように思い出していることでしょう。

 知ってるかい、と三十年余り前に大和人を誘った啓蒙(?)の唄「泡盛の島」は、70年の作品。なかなかいい唄です。リズムも弾んでいる、旋律もいい、詞のテーマもいい、何とも屈託のない気分のよさ。「ヘイ!二才達」と並んで普久原恒勇、ホップトーンズの代表曲だ。

 泡盛の生まれた邦を 知ってるかい
 ウチナーとも うるま島とも言うんだよ
  ホラ ルルル ホラ 珊瑚 花咲くあのシマだよ
 銀色の渚に太陽降り注ぎ 
 恋するには もってこいの島だよ

 三絃と歌の邦を 知ってるかい 
 うるま島 琉球島とも言うんだよ
  ホラ ルルル ホラ 梯梧の木の成るあのシマだよ
 常夏に連なる山々 空青く
 憂さ晴らしに もってこいの島だよ
  (作詞 そけいとき  作曲 普久原恒勇) 


 三十年前の沖縄人よ。この三十年という時間は取り返しがつかないものです。いやいや今でも海の青さに空の青、浜は白くて梯梧は紅い。確かに、確かに。しかし、私が初めて沖縄島を訪れた十数年前既に、会う人会う人嘆いていた、二十年前とは全然変わってしまった、と。道路は出来た、ランプは要らなくなった、病院が近くなった、が土は? 田圃は? 蛸は? 魚は? これが、大和世。
 花咲き乱れていた珊瑚は、開発という名の投資=銭雨が垂れ流した赤土に埋もれた。寄り物豊かな銀色の渚はリゾートが珊瑚打ち砕き砂入れ替え見事な作りものに仕上げた。知ってるかい?
 核抜き本土並の蓋を開ければ、実弾演習、都市型ゲリラ戦演習、緑に連なる山々もその一部は赤い肌を露にさせられた。知ってるかい?
 日本国家が抱える経済・軍事・自然破壊などの矛盾の捌け口として、そのシマは利用されたにすぎない、のか。「平和憲法下への復帰」は、「極東安保の負担を少数者に負わせていく現代の琉球処分」であった、のか。

 「だいじょうぶさ〜沖縄」という去年の観光キャンペーンに私は異を唱えて来た。琉球・沖縄を放ってはいられない大和人たちもそれぞれに発言していた。共通する発想はこうだ、沖縄はずっとずっと大丈夫なんかじゃない。今も去年もその前も。大丈夫でない沖縄の現在を人々が生きている、生活している。こんな時だからこそ、今まで以上に深く関わり合おうじゃないか。
 昨年七月に東京でシンポジウムがあった。「共感・共苦は可能か」がテーマ。二号前の本通信で編集長ジャッキー氏が触れていた目取真俊、徐京植も参加した。この際である、皆さんももう一度「クイパラ通信3月号」の「よもやま話」読み返し、図書館に足を運んでユリイカの特集号と目取真の「沖縄/草の声・根の意志」を読まれたい。今あるものは絶望なのか、いや、ギリギリの所での希望【注】なのか。一旦開いたらきっと離せなくなることでしょう。

 とにかく、サンフランシスコ講和条約【注】で施政権を合衆国に奪われた(念のため、奪われたのは日本ではありませんよ、沖縄を日本に返してどうなるというのですか)琉球諸島は72年5月15日に日本国の版図に組み込まれた。単純に言えば「施政権返還」。原理的に考えれば「シマに返されるべき琉球の魂が、再び(いや三度か、四度か)彷徨い始めた」その日、那覇には涙の雨が降っていて、与儀公園は無念の人々で溢れていたと聞く。

 今回の最後に、取り上げた二つの唄の最終連を掲げたい。御存じの方はご一緒に口誦さんで下さい。

 幾つもの痛みを 背負わされても
    シマ唄の響きは 絶えることはない
 鉄の嵐がシマに 吹き荒れても
   榕樹(がじまる)の根は大地に ますます広がる
 幾世何時迄ん 風吹ちゅるままに
   流り行くままの 白雲の如に
 嫋やかな あの白い雲のように
 

 紅型と踊りの邦を 知ってるかい 
 琉球とも 守礼の邦とも言うんだよ
  ホラ ルルル ホラ カンプー乙女のあのシマだよ
 こまやかな 情けに溺れて帰れない  
 屍(ほね)埋めるに もってこいの島だよ
 

  しかしそれにしてもだ、私の住む多摩は、麗しき五月だ。風薫る五月だ。 
柳の緑、藤の紫、露草の青。
蝦蟇も蚯蚓も元気であるよ。

(02・05・07 ブラウン管の向こうでは衆議院有事関連特別委員会質疑中だ)

引用した歌詞の中の「シマ」表記は、らふてによるものです。

 

【注】
希望」は目取真俊の掌編、二千字程度のもの。99年6月朝日新聞に初出。四週連続して掲載された「コザ(『街物語』より)」の最終作。白人の幼児を殺し犯行声明文を送った主人公は宜野湾市の海浜公園で焼身自殺を遂げるのだが、その直前にこう独白する。
「三名の米兵が少女を強姦した事件に、八万人余の人が集まりながら何一つ出来なかった茶番が遠い昔のことに思える。あの日会場の隅で思ったことをやっと実行できた。後悔も感慨もなかった。ある時突然、不安に怯え続けた小さな生物の体液が毒に変わるように、自分の行為はこの島にとって自然であり、必然なのだ、と思った。」

  4・28については「ぼくの好きなうた28回」(クイパラ通信)などをご覧下さい。



【参考】

CD「芭蕉布」普久原恒勇 nafin(ビクター) 00年
 (75年2月コザでの録音の再編集版)

CD「チバリヨー ウチナー」 音楽センター 97年

ユリイカ(詩と批評)  01年8月号 
             特集 沖縄から 青土社

沖縄/草の声・根の意志    01年9月 世織書房
 

クイチャーパラダイスHP



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