最近の文章(らふていさを/大池功)【3】


ばがけらぬいぬち--そこにある全ての命への愛

                                                   【ぼくの好きなうた45】

 
 「ばがけらぬいぬち」を「我らの命」と日本(共通)語に意訳することから始めよう。  そも「我ら」とは何ぞ。「命」とは何ぞ。  例えば、私がここに書き、あなたが今それを読んでいること。これで私とあなたたちは「我ら」です。書く、読む、ということでは(少なくとも今)我らは共に生きているのです。      

 ばがけらぬいぬち しまとぅとぅみあらしようり

    我ら皆の命、シマと共に在らして下さいませ(神よ)

 西表に、今年はすでに三回お邪魔した。  一回目は三月下旬、陰暦では二月、用意していた水着を使うことなく二泊を過ごした後、沖縄に向かうという前夜になって風が止み、晴れた。
 夜中、祖納から干立へ十五分ほど歩く。両脇から蛙の合唱。蛙とはいっても大和では馴染みのない種類の声の中を一人歩くのは心細かったが、見上げれば満天の星、見知った北天の星座が、少々高度は低いものの、私の心を和ませてくれた。
 翌日の昼、船浦港を発つ頃には彼岸を過ぎた陽光が眩しい。その船に最後に乗ってきた少女には見送りの少年達がいた。春は別れの季節でもあったのだ、とその様子を見ていると、船は桟橋から離れる。青い青い海が陸と船の間に割り込んだ瞬間、喚声を上げて小柄な男の子が飛び込む。白い飛沫。少女の顔がほころんだように思う。すると、続いてもう一人が。また、一人が。別れの感情を異化していく時間。いいものを見せてもらった。船浦港が見えなくなってから竹富の島影がはっきりしてくる頃までずっと、少女は一人甲板で涙していた。
 

  二回目は身近な十代の少年少女数十名とともに過ごした三泊の旅。(これはらふての本業(?)関係ですので詳しくは書きません)海に身を任せたり、山に自然探索に行ったり、十分に幸福でしたが、やはり大和の都会人たちの集団と「シマ」には齟齬もありました。数十人は多すぎた、ご免なさい。
 
 

〜その年三度目の西表、旧暦の盆の直前であった〜  


 三回目は陰暦七月、盆の準備の時期。朝も昼も夜も、降っても晴れても、強烈な自然の、見事な調和をもって、私達異邦人にさりげなく何かを迫ってくる西表。書いて描ききれるものでは無いのだが、ほんの少し、動物の名前だけ並べてもこんなふう。
 夜明けには、全音音階(ホールスケール)を僅かにずらして駆け下りるゴッカル(リュウキュウアカショウビン)の啼き交わす声。
 亜熱帯のシダ植物の森を通奏するのはアブター(蛙)。
 それに乗せてツクツクホウシと似た旋律型でメロディを奏でるイワサキクサゼミ。 
 夜が来ると遠くで控えめに喉を響かせているチコホウ(リュウキュウコノハズク)。 
 家の内外で身動きもせず己の存在を知らせる守宮。
 加えて、声は聞かなかったが目にした沢山の生き物、マヤダン(カンムリワシ=鷲の鳥)、カマイ(リュウキュウイノシシ)、水牛、ヤマミー(セマルハコガメ)、大蝙蝠、サギたち、トカゲたち、ヤスデたち、蝶たち、ヘビたち、カニたち、ホタルたち、そして、ヒル。
 私の脹ら脛や首筋からちょっとだけ血を吸ったヒルたちよ。今も西表のシマとともに在ることでしょう。 
 
  かーらぬ ばたさぬ あぶたーま    ぱにばむい とぶけ  
  ばがけらぬいぬち しまとぅとぅみ あらしょうり 

(湧き水の端の蛙、羽を生やして飛び立つまでも、我ら皆の命シマとともに在らせたまえ)

  やどぅの さんの ふぐちめま    うぶとぅ うり さば なるけ  
  ばがけらぬいぬち しまとぅとぅみ あらしょうり 

(家の桟にいるヤモリ大海に下りて鱶になるまでも〜)

  ぐしくぬ みぬ ぼなちぇーま   うぶとぅ うり ざの なるけ
  ばがけらぬいぬち しまとぅとぅみ あらしょうり 

(石垣の中のキシノウエトカゲ大海に下りて儒艮になるまでも〜)

  むりむりぬ やまめーま   うぶとぅ うり かみ なるけ
  ばがけらぬいぬち しまとぅとぅみ あらしょうり 

(森々のセマルハコガメ大海に下り亀になるまでも〜)

 
  種子取祝に唄われる古謡「かーらぬばたさぬあぶたーまゆんぐとぅ」の一部である。外の目からは「大自然の残る亜熱帯の秘境=西表」、といった印象が強い島だが、 それはずれている、と今年になってらふては認識を変えた。ほとんどの生物たちは人と共生してきている。山猫が有名だが、人が農耕を始めてからは主に田に集まる蛙、鳥、蛇などを捕食して生活しているとのこと。ヤママヤーは神だから人は捕らえることはしない。一方、猪は田畑を荒らす害獣で、ずっと食用にしてきた。数のバランスは保たれてきた様子。
 この夏、私は西表以外に、竹富、波照間、石垣に足を踏み入れたのだが、どの島からも西表は大きく見える。山稜に雲を頂いていることがほとんどだ。夜には雷の閃光もしばしば見えた。西表滞在中は、よく雷鳴を聞いたし、通り雨はほぼ毎日のこと。雨が植物を生み、動物を生む。だから古くから水田が拓かれて来た。四十年ほど前、米軍の支配している期間にマラリアは消えた。全く豊かで平和な島である。今は軍事施設もない。
 そのシマの「ばがけら」とは、「いぬち」とは、何ぞ。
 「月の可愛しや」を「お月さま美しさは」と訳している島袋全發氏(方言論争で図書館長を辞めさせられた事もある研究者、教育者、ジャーナリスト、故人)は、その著書の中で「ばがけら」を「私達皆」とした。
 石垣金星氏(西表をほりおこす会会長、もと教師)は単に「私たち」としている。玉津博克氏(八重山高校教諭)は「我が君ら」「(私の)敬愛する君ら」と訳している。
 この玉津氏のエッセイは興味深い。「ばがけらぬいぬち」を「村人の命」と解釈し、「八重山社会構造の特性と人々の心が凝縮されている」と述べている。が、らふてが「敬愛する君ら」と言えば、生きとし生けるもの全てだ。泉も川も海も湯気も雲も雷も雨も蛭も含んだ生きものたち。種子取祝は、新しい一年に向けた区切りの祭であろう、一年一年を遥かに超越して蜥蜴が儒艮になり、蜆がシャコガイになる--そんな風になるわけがないことを人々は百も承知で唄うのだ。つまり無限の未来まで、という理屈、あらゆるものが大きくなっていくという成長願望も含みつつ、この世での永遠の加護を神に祈る。  玉津氏は「西表の君が代」と紹介している。「非科学的な岩石や動物の変容、変態」と「長寿」が題材という点で、大和の「君が代」と比較する。なるほど、千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで、か。「非科学」を認識して唄っていたのだ、と「君が代」を見直す。その上で、「ばがけらぬいぬち」と「あなた様の時代」の遥かな距離を思う。

  命に不安を感じた多くの人々が故郷を離れていると報道されている。宗教をこえて「ばがけらぬいのちしまとぅとぅみあらしょり」と祈ることは可能だろうか。  どこかで命が脅かされていると知る時こそ、「ばがけらぬいぬち」と「あなた様の時代」の無限の隔たりを忘却することのないように、と自らを戒める。 
                        (2001.9.17.いさを)
 
 【参考資料】

ヤマナ・カーラ・スナ・ピトゥ(西表島エコツーリズム・ガイドブック)
    西表島エコツーリズム協会

西表の君が代(コラム唐獅子) 玉津博克
     沖縄タイムス2001年2月20日

沖縄童謡集          島袋全發
    72年平凡社(34年一誠社刊の復刻版)

うるま41号(01年八月号) 三浦クリエイティブ
 

01年09月11日の合衆国への攻撃の後、書いた文章。

大量死。

それは当然、合衆国の関わったこれまでの近代戦の中で死んでいった者たちの事を思い起こさせた。

クイチャーパラダイスHP
都立Z高校の沖縄修学旅行放棄(01年秋)に関係する掲示板



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